『伯母峯隧道の謎』を掲載したところ、いろんな方からメールを頂きました。 ここでは頂いたメールを、ご本人の了承を得て記載しています。 また掲示板の方にも書き込みがありましたので、これもご本人の了承を得て記載しています。 記載は日付順です。 (本文中の『峰』はそのままにしてあります。) |
◇伯母峯隧道について、kaienmaruさんから掲示板の方に書き込みを頂きました。(2002年1月3日付け) |
新しい伯母峰TNのレポートと写真興味深く拝見させて頂きました。特に画像は古いコンクリ建造物特有の大き目の砂利が多く入ったもののようで非常に興味が湧きます。 |
で、今の私の推理は・・・r40開通のS36から新伯母峰TN開通のS40までは、伯母峰TNは現役国道であった訳で、むしろr40開通時の起点は伯母峰TN熊野側とする事が費用その他で自然ではないかと。 |
@大台口TNの南側の谷を埋めて山積みにして仮置。 A付替え道路供用開始後伯母峰TN北側閉鎖、引き続き斜面改良工事。 B仮置していた土砂は平地が残る程度はそのままにして余りを伯母峰TNに捨てた。 Cその平地に休憩所を建設した。 |
9月に帰ってから以上のように考えました。大台TN出口の休憩所の平地は不自然な平地のように感じましたので(当方休憩所建設前の更地の時代も見ています) (注)読みやすいように文章を編集してあります。 |
なぁ〜るほど。 調べてみた所、大台ヶ原ドライブウェイは1961年(昭36年)頃に完成しています。 (管理人@あめふらしの書き込みを転載) |
◇伯母峯隧道について、Four3さんからメールを頂きました。(2002年2月9日付け) |
初めまして。 169号線旧道のページを見ていると、大台口TNの施行年度に関することがありました。『山形の廃道』というサイトの全国トンネルリストに、大台口TNの施行年度の写しが掲載されていました。 (注)文章を一部変更してあります。 |
Four3さん、メールありがとうございました。<(_ _)> で、早速見てみました。大台口TNの竣工年は1959年(昭34年)と記されています。 ということは、大台ヶ原ドライブウェイ開通(1961年)より前に完成していることになります。道路建設のための工事車両を通すために先に完成させ、完成後2年ほどの間は工事専用道路として利用していた可能性があります。 当時、老朽化していた伯母峯TNの付け替えTNとして建設したという可能性もあります。しかし、当時はすでに(1966年に完成する)新伯母峯TNが計画(もしくは建設工事が開始)されていたことを考えれば、大台ヶ原ドライブウェイ建設工事のために、大台口TNを先に完成させたと考えるのが自然かと思うのです。 伯母峯隧道熊野口にある狭路は、当初は工事専用道として建設。ドライブウェイ完成後、(当時の)R169熊野側からの連絡道として流用されたのでしょうか? 大台ヶ原からの出口専用道路で一方通行だったかも・・・ ますます混乱してきました。 冬期通行止め規制が終わってから、大台口TN周辺に3度目の現地調査に行かないことには分かりませんな。 調査してもほとんど分からないでしょうけど・・・(^^;) 『山形の廃道』さんとは相互リンクしております。 (2002.02.23) |
◇伯母峯隧道について、morilinさんからメールを頂きました。(2002年4月30日付け) |
こんにちわ。morilinと申します。 『旧道を行く』、しばらく前から興味深く拝見させて頂いています。 私以外にも、伯母峰隧道の北側出口がないことに頭を悩ませた人がいたんですね! 私は、2001年5月に初めてこの事実を発見し、それ以来気になっていました。 尾根近くにある欄干風の構造物は貴HPで初めて知り、本日(2002年4月29日)、大滝ダム区間と一緒にそれも確認してきました。
(r40の)大台口隧道を抜けて、旧R169上北山側に歩き始めてすぐの所、伯母峰隧道に着く前に登山道風の登り口がありました。ここをしばらく登ると鞍部に出ました。そこに関電(関西電力)の小さな設備があり、その付近に例の構造物があったのです。そこからはr40を見下ろせました。 位置関係から言って、この構造物はやはり伯母峰隧道の一部ではありません。旧旧道の一部と判断した方が的を得ているようです。 国土地理院の地形図を見ると、r40を大台ヶ原側に登って来て大台口隧道の500mほど手前で旧旧道らしき点線が尾根側に分岐しています。(実際にはそれらしき痕跡は分かりませんでしたが) それは少しの間r40に併走、大台口隧道手前で南へ折れて尾根(伯母峰峠と記されています)を越えて上北山村へ抜けています。 どうも位置関係で見ると、例の構造物はやはり旧旧道の一部、それも伯母峰峠を越える部分であったように思われます。しかし、とても昔は道だったように思えませんでした。ど真ん中に関電の設備が居座っていましたし。
大台口隧道から伯母峰隧道南口までの距離と標高差を考えると、私的にはあの構造物がある場所よりももう少し下った所にあるように思えたのです。歩きながら山肌を観察したのですが、はっきりと『これだ』と思える痕跡は発見出来ませんでした。 やはり斜面崩落の復旧などで完全に埋められてしまったのでしょうか。人間の作った地形など、こうまで簡単に無に帰することができるのですね。
今後も『旧道を行く』HP、楽しみにしております。 それでは。 (注)文章を一部変更してあります。 |
morilinさん、メールありがとうございました。m(_ _)m 険しい山々の連なる紀伊半島の山中には、古来より尾根伝いに東西南北に結ばれた街道があったそうです。谷に沿った街道だと上り下りが大変なので尾根伝いの道が発達したのでしょう。 R169の西側を走る十津川街道(現R168)に天辻峠という峠があります。名の由来は山頂(天)で街道が交差する(辻)ということからだそうです。今でこそ何もない天辻峠ですが、聞く所ではかの昔は宿屋や問屋が建っていたほど賑わっていたそうです。かつては山頂を結ぶ道こそが主要道だったわけです。 伯母峰峠もそんな山伝いの東西の道と南北を結ぶ街道との交差点だったようです。morilinさんが歩かれた山の稜線に上がる道は旧東熊野街道ではないでしょうか。私はこの道を歩いていないので、どのような道かは分からないのですが、かつては車道にするために拡幅された道だったかも知れません。 伯母峯隧道が完成したのが1940年(昭15年)なので、その時点で廃道となったとすれば、実に60年も経っています。その当時の道はほとんど自然に還っていることでしょう。あの構造物は峠を越える旧旧道の唯一残る(?)遺物なのかも知れませんね。
私もR169に戻る際に、山側斜面を調べながら下りました。ただあの地点よりも下にトンネル出口があったようには思えないのです。 あの地点より下にある斜面に生えて生い茂っている木々の状態はどうみても30年以上経っているようにしか見えません。しかもその草木は途中で途絶えることなく続いています。大台口TN北口〜R169合流手前のヘアピンカーブまでの山の斜面で、その生い茂った草木が途絶えているのは写真で示した部分だけです。あの部分だけが他の部分に比べると、不自然に木々が生えていないのです。落石防止のコンクリート壁が存在する所もありますが、せいぜい高さは5mほど。TN入口を隠すには低すぎます。 やはり、あの付近に伯母峯隧道北口があったと考えるのが妥当ではないでしょうか?
まぁ、私の意見もあくまでも推測でしかありません。こうなったらGPSか何かで位置を計測して推測するしか手だてはないのかもしれません? (2002.05.15) |
◇伯母峯隧道について、morilinさんからメールを頂きました。(2002年11月6日付け) |
r40(県道大台ヶ原公園川上線)に入って大台口隧道に近づくにつれ、早くも雪の降った跡が所々に見受けられ、冬期通行止めになる前に来ることが出来て良かったと安堵しました。 問題の伯母峰隧道吉野口を捜そうと、大台口隧道からr40を歩き始めました。貴HPで取り上げられた、木の生えていない斜面から更に徒歩1分ほど下がった所が、緩やかな右カーブになっていました。その山側斜面は、土が少し盛り上がっているものの、本格的な山肌といえるものは少し奥に引っ込んだ形になっています。何となく匂いを感じ私は、茂みを掻き分けて入り込んでいったのですが、そこに人工物ではないかと思わせるものを発見しました。 足元に土の間から姿を覗かせているそれは明らかに長方形をしており、材質もただの岩石ではなくコンクリートのようでしたが、苔むした上に土砂と茂みが覆い被さって、余程注意して見ないと気付かないほどに自然と一体化していました。その長方形の構造物は、階段状に2段連なった形になっているようでした。 私の推察では、これが伯母峰隧道吉野口の抗口上部だと思います。恐らく、大台口隧道が完成した後、初めから廃棄される予定だったであろう伯母峰隧道は、大台ヶ原ドライブウェイ建設で出た土砂で吉野口の方からどんどん埋め込まれ、抗口から溢れ出して完全に隧道を覆い隠した土砂の上に40年の長きに渡って草木が生い茂った結果が、今の姿ではないでしょうか。 確かに、その部分の土は明らかに山肌の一部ではなく、工事で出た土砂を人為的に積み上げただけのもののように思えるのです。 シャベルでも持って来ていれば、少し掘り下げて銘板を確認出来たのですが、それが出来ていない以上、あるいは全く別の物の遺構かもしれません。 それにしても、単に『隧道の出口の片方がない』、これだけで想像を膨らませて楽しむことが出来る私たちは、傍目からどう見えているのでしょうか? これからも、何か気が付いたことがあればメールさせて頂きます。よろしくお願い致します。 (注)文章は一部編集してあります。 |
morilinさん、メールありがとうございました。毎度の情報提供ありがとうございます。m(_ _)m ご指摘の右カーブ、なんとなく覚えがあります。完全に山肌だと思ってしまい、精査せずに通り過ぎています。出来れば今年中に行ってみたいのですが、今年は冬の到来が早くr40の走行は難しいかも知れません。来春に行ってみます。 さて、伯母峯隧道の廃棄された年はいつなのでしょうか? 大台口TNの竣工年は1959年(昭34年)、大台ヶ原ドライブウェイの開通は1961年(昭36年)、伯母峯隧道前後の狭路区間のBPTNとして建設された新伯母峰TNの貫通は1963年(昭38年)で完成・供用開始は1966年(昭41年)となっています。 個人的見解ですが、先に完成した大台口TNは大台ヶ原ドライブウェイが開通する1961年までは工事専用道路として活用され、1961年のドライブウェイ開通後に伯母峯隧道が廃棄されたのではないかと考えました。大台口TNが一般開放(同時に伯母峯隧道放棄)されてから新伯母峯TNが供用されるまでは、大台口TN経由のルートが暫定的にR169(もしくは迂回路)となっていたのではないでしょうか? でないと、伯母峯隧道熊野口〜大台口TN大台ヶ原口間の連絡道路の存在意義が薄れます。ドライブウェイは大阪や奈良方面からの観光客目当てに建設された道路。ドライブウェイから奈良県南部(上北山村方面)へ連絡道路の役割があったとしても、それだけのために高い建設費で道路を作るとは思えないのです。道路は伯母峯隧道吉野口から分岐させるだけで十分ですから。 また、大台ヶ原ドライブウェイ建設中で出た土砂を隧道まで輸送して捨てるよりも、谷に放棄した方が手間も輸送コストもいらなかったはずです。前述の通り、建設で出た土砂を谷に放棄していたことが大問題になったという話を聞いています。 となると、伯母峯隧道に投棄された土砂は、1961年以降のドライブウェイ改良工事で出た土砂か、新伯母峯TN建設によって出た土砂ということになります。しかし新伯母峯TN建設で出た土砂をわざわざ伯母峯隧道まで上げてくるというのもコスト面や道路事情から考えると現実的ではありません。 『土砂を谷に捨てた!』と騒がれたために、大台ヶ原ドライブウェイならびに沿道施設などの改良・整備や建設工事で発生した土砂を伯母峯隧道に捨てたのはないでしょうか。 |
今回のmorilinさんの発見は、伯母峯道の謎を解明する大きな手がかりになるかも知れません。ただ斜面や地面を掘るのは、人為的災害が起こるかも知れないのでやめて下さい。大事になったら大変です。 morilinさんからは、後日掲載許可のメールを頂いたのですが、そこに『夏場はマムシが出そうです』と書かれてありました。そうですね、草むらというか藪の中なので夏場は大変危険です。かと言ってマムシが冬眠する冬場は、r40分岐点でゲートが設置されるので訪れることができません。早春か晩秋しか調査できないということです。はい。
果たして、全てが分かるのはいつの日なのでしょうか? 「役場に聞いたらてっとり早いんじゃ?」と思われるでしょうけど、やはり想像を膨らませて推察して行くのが面白いのですよ。端から見たら「で、それが何なの?」と言われそうですが、なんか遺跡を発掘しているみたいじゃありませんか? 『激しく自己満足』の世界ですね。(^^) 情報お待ちしています。メールか掲示板に書き込みして下さい。 (2002.11.21) |
◇伯母峯隧道について、徒然草さんから掲示板の方に書き込みを頂きました。(2003年11月26日付け) |
先日、奈良の県立図書館に行った際に「上北山村の地理」なる郷土資料を見ました。旧伯母峰隧道の現役時の写真が載ってました。ちゃんと向こう側の出口が穴を開けてました(当然か)。旧隧道開通前の旧旧道は旧隧道を回り込むような形で道がついていたような地図も載ってましたが・・・。 |
と、いう書き込みでした。続いて、同じレスに書き込みです。 |
「上北山村の地理」の本には旧隧道の写真が3枚載ってます。1枚は巻頭の写真ばかりあつめた部分の5ページ目。路線バスが旧伯母峰隧道の右側からTNに進入しようとしている写真です。同じ本の111頁の地図では、この本が出版された1964年当時は大台ケ原ドライブウェイは旧隧道北側を通過して、TN(大台口隧道でしょうか?)をくぐって、ゲート(料金所?)を経て大台ケ原方面に道が伸びています。つまり、峠南側には当時、大台口隧道と旧伯母峰隧道間を直結する道はありませんでした。 |
さらに続きます。 |
バスがTN右側から進入しようとしている写真なのですが、ひとつ気になるのはバスは動いているのではなく、停止していて、運転手らしき人がバスのタイヤ点検らしき作業をしている所が写っている点です。それと見た感じ、隧道付近は左右方向に広くなっていることがわかります。ここでもうひとつの可能性として、左側からTNに進入しようとしたが、タイヤに異常が出たので点検するために、通行の邪魔にならないように右側一杯にバスを寄せているのかもという説も出そうと思えば出せるかもしれません。ただ、人間の習性としてはまず、右側からTNに入ろうとして異常が起きたら、そのまま道路の右側で退避スペースを探そうとするでしょうし・・。 |
情報ありがとうございます。時間を見つけて奈良県立図書館に行ってみます。
>出版された1964年〜(略)〜峠南側には当時、大台口隧道と旧伯母峰隧道間を直結する道はありませんでした。 伯母峯隧道熊野側抗口前〜r40大台口TN南側抗口間の道路ですが、新伯母峯TN開通後に何らかの理由で建設されたのではないでしょうか。もしかしたら、伯母峯隧道を埋めた土砂はこの時に発生した土砂かも知れません。またこの時、伯母峰峠を越えていた旧旧道の熊野側の部分(隧道前で合流?)は消滅したのではないかと考えられます。 旧旧道も戦前はバスが運転されていたそうなので、それなりの道幅があったと思われます。それがそっくりと無くなるのはどうにも腑に落ちない・・・。隧道前の合流部分は、少しだけ旧旧道が残っていたのではないでしょうか?1964年当時なら、峠越えの道が旧旧道(当時は旧道)になってから約25年経過していただけなので、ある程度は道の痕跡があったと思います。まぁ残っていたと行っても10mぐらいで、その先は無くなったか自然に還ってしまったかもしれませんが。 >路線バスが旧伯母峰隧道の右側からTNに進入しようとしている写真です。 ということは、写っている写真は熊野側(上北山村側)となります。バスは隧道脇の旧旧道の残っている部分に止まっていて、そこから隧道に入ろうと動き出したかも知れませんよ。吉野側の旧道は当時ダート狭路だったので、坂を下る前にタイヤのチェックを行っていたのかも知れません。
2003年11月末時点では、私は本を見ていないので明確な考えを出せません。あくまでも書き込み内容から推察しているに過ぎません。本を読んでからまた書き直します。m(_ _)m
ところで2003年11月の調査の時、すでに手入れもされずに朽ちて行く伯母峯峠を越える登山道を発見しました。人一人が歩けるぐらいの幅しかない急勾配の登山道です。この登山道が旧旧道の痕跡とは思えませんが、峠付近には旧旧道の痕跡が残っているようです。 これらを03年11月に調査するつもりでしたが、大台口TN吉野側抗口脇から分岐する林道(旧旧道か?)は、ゲートが閉じられ作業中だったので進入することが出来ませんでした。来年は旧旧道を探さないと。こうして謎はまた一つ増えました・・・(^^;) (2003年12月1日) |