◆国道166号線竹内峠旧道 |
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●竹内街道 竹内峠は大阪府南河内郡太子町と奈良県葛城市(旧:北葛城郡当麻町)との境にある峠。今はR166の2車線道が切り通しの道路で通過している 。 R166の大阪府羽曳野市〜南河内郡太子町〜奈良県葛城市〜大和高田市の間は、昭和50年(1975年)4月に国道昇格となった区間。もともとは大阪府道/奈良県道大和高田富田林線で、その前身を追ってゆくと7世紀の奈良飛鳥時代の官道である竹内街道にまで遡ることが出来る。 竹内街道は推古天皇(593-628)時代の官道(今で言う国道)で、難波(今の大阪市)と京(飛鳥)を結んでいた。今で言えば国道1号線ということになる。江戸時代以降の竹内街道のルートは、大阪府堺市〜松原市〜羽曳野市〜南河内郡太子町〜奈良県葛城市〜大和高田市となっており、その大部分が7世紀の設定されたルートと重なっているとのこと。R166のうち羽曳野市〜 葛城市竹内の間は竹内街道にほぼ沿っている。 その竹内街道の難所だったのが竹内峠。標高約290mの峠であるが峠前後は急勾配の斜面となっており、歩いて上り下りするには辛い峠道だったと思われる。 ●明治時代の竹内峠 明治時代になってからの竹内街道は、他街道と同じく江戸時代の姿のまま利用されていた。しかし竹内街道の竹内峠前後の区間は急峻な坂道となっていたため、街道を行き来する人や馬にとっては大変な難所となっていた。特に堺港から奈良に向かって荷物を輸送する際には障害となっていたため、沿線各村々が明治8年(1875年)に奈良県(初代)に対して改良を願い出た。しかし県の予算がないため工事は行われないまま、翌明治9年に奈良県は堺県に合併されてしまう。 改良工事が始まるのは明治10年(1877年)になってから。同年10月に堺県によって竹内峠の改良工事が開始された。旧道の竹内峠に立つ『竹内嶺開鑿碑』(開鑿:かいさく)には、『十年十月諸官被之始起工開鑿山頂東西分割鑿下者九歩許以開延袤七十歩担道而左右山腹毎雨輙崩随修随崩工事大困』との記述がある。碑は漢字のみで書かれているのが、大凡の意味は”山頂で東西に(工区を)分けて開削工事を始めたが、雨が降る毎に山の斜面が崩れる難工事”ということなのだろう。かなりの難工事であったことが伺える。 明治14年(1881年)2月に堺県が大阪府に編入されると、工事は大阪府が主体となって継続される。 同碑には大阪府編入後について述べられた後、『設溝渠於地中疏通水道築以大石於是山腹鞏固無復崩潰之虞』と記されている。”地中に排水管(のようなもの?)を築き、山の斜面に大石を置いて強固にした(補強した?)ことで土砂崩れ・崩壊などの恐れが無くなった”というのが大凡の意味だろう。 |
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明治15年(1882年)3月中旬に一部未改良区間があるものの人馬の通行が許可された。今で言うところの暫定供用か先行供用開始というところだろう。竹内峠の改良工事が完成するのは、明治18年(1885年)3月頃とのことであった。その2年後の明治20年(1887年)11月に奈良県が大阪府から分離独立。竹内峠は大阪府と奈良県の府県境となった。
【写真】竹内峠旧道沿いに建つ石碑と石柱。写真奥(右側)から、『竹内嶺開鑿碑』・『奈良県管轄の碑*』・『竹内街道の由来についての碑*』。(*:@管理人が勝手に付けた碑名です。) |
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●その後の竹内街道 現在の旧道は明治時代に改良された竹内街道の道筋と思われる。明治以降の竹内街道に関する資料が手元にないので、はっきりしたことは不明だが、明治時代に県道初瀬街道として指定されたのち、大正9年(1920年)には県道高田古市線(大阪府側は古市高田線?)となる。大正時代以降は車道として整備改良が進んだようだ。府県道〜国道となってからも、バイパスが開通するまでは峠前後、特に奈良県側はウネウネと急坂と急カーブが続く悪路であった。 個人的な話であるが、子供の頃に親父が運転する車に乗って何度か竹内峠を越えたことがある。正月の初詣で橿原神宮に向かう時に通ったのだが、鬱蒼とした山の中をウネウネと曲がりながら進む1車線狭路を走って面白がっていたことを覚えている。子供の頃なので昭和40年代後半〜50年代前半の頃、国道昇格前後の頃となる。現在の切り通しの2車線道が開通したのは昭和59年(1984年)。空中撮影写真を見てみると、昭和49年(1974年)撮影写真には竹内峠前後はまだ建設中だった 。 また昭和36年(1961年)撮影写真には磐城駅付近〜竹内集落北側のバイパス道路の道筋が確認出来る。竹内峠区間が |
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国道昇格する前に、竹内峠前後以外の道路は完成し供用されていたことになる。写真から判断すると、大阪府側の道は狭路でウネウネと曲がりくねった坂道のようで、別ルートで貫くバイパス(今のR166)が建設されていた 。ただ峠近くでは旧道を拡幅・改良していた。 なので竹内峠旧道で距離が長く残っているのは奈良県側だけで、大阪府側の旧道は断片的に残っているような状態である。
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参考資料・文章引用元>>当麻町史(昭和51年刊) |
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■国道166号線竹内峠旧道【2000〜2003年走行レポート】 ■国道166号線竹内峠旧道【2008年走行レポート】 |
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>>Update 2009.05.30 |
○国道166号線竹内峠旧道 【2000〜2003年走行レポート】 |
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竹内峠旧道は南阪奈道路建設時は一時工事車輌専用道となっていて、一般車の通行は制限されていた。建設工事が一段落した頃に警備員の詰所が撤去され、一時は一般車も通行できるようになっていた。しかし2003年(平15年)7月にR166を走ってみると、旧道入口にあったゲートが閉じられているのを確認。現在ではバイク・車とも通行不可能となってしまった。 |
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【レポートは奈良県→大阪府方向です。】 |
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■奈良県側分岐点〜R166現道交差点【奈良県北葛城郡当麻町】 |
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R166竹内峠旧道の奈良県側分岐点は、奈良県北葛城郡当麻町竹内地区にあるr704(県道竹内河南線)分岐点近くにある。旧道は1車線幅の狭路。現道が急勾配の坂道で駆け上がるのに対して、旧道は緩やかな勾配の狭路坂道で進んで行く。すぐに鬱蒼とした山間に入り、薄ぐらい山中を進んで行くようになる。奈良県側旧道分岐点から700mほど進むと、左側に高規格道路が現れる。建設中の南阪奈道路の竹内峠のトンネル抗口(奈良県側)脇に出たのだ。おそらくはこのトンネル工事のための専用道路となっていたのだろう。 南阪奈道路の道路とトンネルを左側に見ながら、緩やかな左カーブの坂道を上って行く。トンネルの真上を通り過ぎると、南阪奈道路に沿う側道(作業道?)の分岐点に到着。ここを過ぎると旧道は急勾配の狭路坂道となって山中に入る。路面が少し荒れた舗装路で鬱蒼とした深い山中を進んで行く。この付近は昔のままのようだ。 ときおり現道からトラックの走行音が聞こえてくる。旧道は現道のすぐ真下を通っているのだ。奈良県側旧道分岐点より1.3kmほど進むと、急な右カーブを曲がりR166現道をボックスカルバード(函型管渠)でアンダーパスする。現道を過ぎると、今度は急な左カーブを描きながら薄ぐらい森の中に入る。旧道っぽい雰囲気が漂うが、わずか100mほど進むとR166現道との交差点に到着した。奈良県側旧道分岐点より約1.4kmである。 ここの交差点の旧道入口に はガードレールによるゲートが設置されてしまったので、バイク・車でのこの区間の旧道への乗り入れは不可能となってしまった。 |
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<<写真はすべて2002年10月撮影>> |
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注意>>市町村名は走行当時の名称です。 |
■R166現道交差点〜大阪府側分岐点【奈良県北葛城郡当麻町〜大阪府南河内郡太子町】 |
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R166現道を横断すると道幅は1.5車線分ぐらいに広がる。ところが旧道は遊歩道として整備されており、入口には石のブロックが置かれてしまいバイク・車での進入は不可能となってしまっている。 遊歩道は旧道をそのまま整備したようで、ウネウネと小刻みなカーブを描きながら進む急勾配の坂道となっている。200mほど坂道を上ると大阪府と奈良県の府県境に到着。ここには『從是東 奈良縣管轄』と記された石標が立っている。ここが竹内峠であり、峠からは大阪平野と奈良盆地に広がる町並みを眺めることが出来る。かつては鬱蒼とした峠だったのだろうが、現在ではすぐ脇をR166現道が走っており昔の面影はほとんどない。 大阪府側に入ると路面は普通のアスファルト舗装に戻る。道幅も1車線幅の狭路となり、急勾配の坂道を100mほど下ると大阪府側の旧道分岐点に到着する。現道交差点より約300m、奈良県側旧道分岐点より約1.7kmである。 R166竹内峠旧道の大阪府側分岐点は、大阪府・奈良県の府県境直前にある。現道から分かれる1車線幅の狭路坂道が旧道で あるが、分岐点にはポールが設置されておりバイク・車での進入は不可能となっている。 |
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*以前のレポートを修正・訂正し、写真を差し替えて再掲載しています。 *記載内容はほぼ初掲載時(0307)のままです。当時、南阪奈道路は建設中でした。 |
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注意>>市町村名は走行当時の名称です。 |
■旧道入口の状態【2001年〜2003年】 |
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初掲載時には載せていなかったが、再編集するにあたり旧道分岐点の状態を載せることにした。工事専用道路から解放された後、しばらくは通行可能だったようだが、平15年(2003年)7月走行時には分岐点にゲートが設置されてしまい、(少なくとも)同年7月以降、奈良県側分岐点〜R166現道交差点の区間はバイク・車とも完全に進入不可能になってしまった。おそらく不法投棄防止などのためだろう。許可申請すれば開いてくれるのだろうが、『旧道探索のため』という理由で許可してくれるのだろうか?徒歩であれば入ることが出来るようだが、道路の現状が分からないのでやめた方が良い。無理に入れないこともないが、自己責任となるので注意してもらいたい。 |
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◆2000〜2003年レポート終わり |
○国道166号線竹内峠旧道 |
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@管理人は地道で大和高田市方面に向かうときは竹内峠を通ることが多い。KSRUでの移動の際には通らざるを得ない。なので頻繁に通る峠なので、旧道も平15年(2003年)走行以来走っていかなった。平20年(2008年)になって、ふと気になり走ってみることにした。ただし進入禁止区間は走行していない。 今回は近鉄南大阪線磐城駅近くからの旧竹内街道のルートから走ってみた。国道昇格前の奈良県道時代の旧道ということになる。南河内郡太子町内の旧竹内街道のルートも一部走行しているのだが、全区間走行していないので、ここでは省略している。 |
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【レポートは奈良県→大阪府方向です。】 |
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■奈良県葛城市【磐城駅前〜r30交差点】 |
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昭和36年(1961年)撮影の空中撮影写真で竹内峠から大和高田市方面に向かう道筋を追っていくと、今の葛城市(当時は北葛城郡当麻町)竹内で2ルートに別れる。大きなS字カーブを描いて集落の北を通る現R166となるルートと、竹内集落内を経由して東に向かい長尾神社の辺りで北に進路を変え、近鉄南大阪線磐城駅近くで現R166と合流するルート。県道の旧道となるのは後者のルートとなる。長尾神社から東、大和高田市街に向かう旧竹内街道のルートは近鉄線の南側を通って行くことになるそうだが、まだ走っていないので今回のレポでは省略する。 大和高田市から西に向かって走る。近鉄南大阪線の踏切を渡ると磐城駅前の交差点に至る。かつてはr30(県道御所香芝線)との交差点だったと思う。ここを左折して葛城市長尾の町中に入ると狭い2車線道で南に向かう。すぐに長尾神社北東角の交差点に至り、ここを右折して東に進路を変える。神社を左に見ながら進んで行くと、道は1.5〜狭い2車線道に変わり、 田畑の広がる郊外の町中を進む。當麻スポーツセンター横を通り過ぎるとr30との交差点に至る。 r30交差点からも1.5車線狭路の緩やかな坂道となって竹内峠に向かう。葛城市竹内地区の集落内には、昔ながらの家屋が建ち並ぶ。旧竹内街道の趣が残る集落内をしばらく 進み、集落の西端部に行くと勾配はきつくなり、急な坂道を上りきると現 R166との合流点に至る。 |
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◆2008年6月4日走行。写真はすべて同じ日に撮影。 |
■奈良県葛城市〜大阪府南河内郡太子町【竹内峠】 |
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【レポートは大阪府→奈良県方向です。】 |
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旧道(竹内街道)は葛城市竹内集落の西の端でR166現道と合流する。しばらく現道と合流して進み、r704(県道竹内河南線)との交差点近くから竹内峠への旧道が分岐するが、ゲートが設置されて進入できなくなっている。そのため竹内峠を越えて大阪府側から峠旧道を走る。 竹内峠の大阪府側分岐点から旧道に入る。ゲートを越えると急勾配の狭路坂道を上り竹内峠に到着する。現R166は峠を切通しており、峠の旧道から左下に現道の2車線道を見下ろすことが出来る。峠を越えると奈良県葛城市に入る。道幅1車線ぐらいになるが、すぐに1.5車線幅の舗装路となり休憩所の横を通ってカーブを描きながら下り、R166現道との交差点に至る。 現道との交差点には旧道の峠寄りにいくつかの石によるゲートが、竹内集落寄りにはガードレールによるゲートが設置されていたが、残念ながら両方とも破壊されていた。 |
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◆2008年1月17日走行。写真はすべて同じ日に撮影。 |
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◆2008年レポート終わり |
■竹内峠その後 |
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峠にあったゲートは破壊されていたが、平21年(2009年)5月に立ち寄ったところ、ゲートが復旧していた。旧道は『竹内街道』としてハイカーなどに開放されており、徒歩であれば通り抜けることができるようになっている。 奈良県側分岐点の鉄柵ゲートは残っているが、人が出入りできるだけの間隙が設けられていた。平21年5月に撮影しようと思ったのだが、西日が強く逆光になるため撮影していない。また機会があれば撮影してきます。m(_ _)m |
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<<MEMO>> |
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■概況・交通量など 竹内峠前後の旧道はバイク・車の進入は出来ないので、通行不可能となっています。 しかし峠にあったゲートは壊されています。不法投棄の可能性があるので、進入禁止にするならするでもう少し頑丈なゲートを設置する必要があるのはないかと思いますが・・・。 竹内集落内から東の区間は完全に生活道路となっていますので、通行する際は注意してください。 |
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●走行DATA |
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竹内峠旧道 【両方向を方向を走行】 >>走行日:2000年3月18日/01年6月1日/02年10月20日 /08年1月17日/08年6月4日/09年5月14日/他多数 |
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【合併情報】 ●2004年(平17年)10月1日付けで、奈良県北葛城郡新庄町と北葛城郡當麻町の2町が対等合併して『奈良県葛城市』になりました。 |
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【竹内峠旧道終わり】 |
奈良県桜井市と奈良県宇陀市(旧:宇陀郡大宇陀町)との境には、北から女寄(みより)峠(388m)・半坂の小峠(433m)・宮奥の大峠(778m)と3つの峠がある。明治時代以前はこれら3峠を越える峠道が大宇陀 と奈良盆地にある桜井などを結ぶ道であった。 江戸時代、これら3峠の中で最も利用されていたのは小峠越えのルートであった。意外にも標高が一番低い女寄峠越えはメインルートではなかったのだ。女寄峠越えのルートがメインルートとなるのは明治に入ってからのことで、明治21年(1888年)5月に峠道が改修されて荷車の通行が可能になってからであった。峠道が改修されると利用者が大幅に増え、峠には3軒の茶屋が建つほどであったという。明治から大正にかけては、宇陀地方の木材を桜井に運ぶ牛馬車が行き来していた。 |
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明治時代に改良された道路が、その後県道松山街道〜鷲家三輪停車場線〜桜井松山線となり昭和28年(1953年)にR166となる。この間の経緯に関する資料がないので推測となるが、桜井と大宇陀を結ぶ幹線道路として早くから整備されていたことは確かであろう。最終的には2車線の急勾配・急カーブが連続する峠道となっていた。 しかし女寄(みより)峠は冬期には路面凍結や積雪があり、急勾配であることもあって交通上の難所となっていた。これらの不便さを解消するべく、平11年(1999年)度より女寄トンネル(L=530m)を含むR166女寄道路(L=1290m)の建設事業が開始。開始約8年後の平19年(200 |
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7年)10月7日に供用開始となり、峠を越えるルートは旧道となった。 |
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■国道166号線女寄峠旧道【2007年レポート】 ■国道166号線女寄峠旧道【2009年レポート】(写真のみ) |
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>>Update 2009.05.30 |
○国道166号線女寄峠旧道 【2007年走行レポート】 |
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【レポートは桜井市→宇陀市方向です。】 |
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奈良県桜井市から宇陀市に向かってR166を進む。桜井市粟原(おおばら)に至ると登坂車線のある急坂を上る。結構急な坂道を上りきると、r198(県道粟原榛原線)との交差点に到着する。ここがR166女寄峠旧道分岐点となる。現在は信号機が設置された交差点となっており、R166は右にカーブを描きながら進み女寄トンネルに入っている。以前は交差点などはなく、道路はそのまま直進しているだけであった。 交差点からは少しだけr198を進むと、以前のR166・r198交差点に至る。ここはそのまま右カーブを進んで行く。するとやや狭い2車線坂道となり、見通しの悪い小刻みなカーブが続く。鬱蒼とした山中に入りしばらく行くと見通しの良い坂道となり、やがて桜井市と宇陀市(旧:宇陀郡大宇陀町)との境に到着。ここが女寄峠である。 現役国道時代は何度もこの峠を越えている。現役国道時代は交通量の非常に多い峠道で、路肩にバイクを止めて峠の写真を撮影するのにも一苦労していた。R166女寄道路開通後は交通量は激減。開通約一月後の平成19年(2007年)11月に来たときは、行き来する車を気にせずに撮影できた。峠も静かな場所に戻っていた。 峠を越えて宇陀市に入る。宇陀市側も急勾配の2車線坂道となる。桜井市側ほどの急カーブはないが、見通しの悪いカーブをいくつか過ぎる。やがて山中から抜けて山間の農村地帯に入る。そして右下にR166女寄道路が見えてくると、ほどなくして合流した。峠から約600mである。 |
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◆2007年11月3日走行。写真はすべて同じ日に撮影。 |
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◆2007年レポート終わり |
■峠の風景 |
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女寄峠は現役国道時代はかなり頻繁に走っていた。何度か峠の写真を撮影しようと試みたが、峠道は交通量が非常に多い道だったため、路肩にバイクを止めて撮影するのに結構苦労した。急に停まると後続車に追突されるし、路肩ギリギリに停めないと大型車の通行を邪魔をするなどなど・・・。なので現役国道時代に撮影したのは平13年(2001年)5月撮影の桜井市側から撮影した写真のみとなっている。 その後も旧道となるまで何度も走っているが、結局撮影しないまま女寄道路が開通してしまった。峠の写真を撮影したのは旧道後の平19年(2007年)11月になってから。交通量が激減していたので通行する車に気を遣うことなく撮影できた。状態は写真の通り。 2回目は平20年(2008年)7月。西行き車線(宇陀市→桜井市方向)のR166国道標識が撤去されていた。『桜井市』の市名標識は新しく付け替えたのか、前の標識を洗ったのか分からないが、汚れが無くなり判読できる状態になっていた。 |
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○国道166号線女寄峠旧道 |
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旧道となってから3回目の走行は平成21年(2009年)5月のこととなった。これまでにもR166現道を何度か走っているし、昨年7月にも旧道を走行している。今回は定点撮影がてら走行してみた。 女寄峠旧道の分岐点はr198(県道粟原榛原線)との交差点となっている。交差点は改良整備されて、r198がT字を描くようにR166現道と接するようになった。緩やかな2車線坂道を上った所にあった、かつてのr198交差点であるが、以前はR166が”主”でr198が”従”だったのが、今はr198が”主”でR166旧道が”従”という風に改められた。r198から旧道が分岐するような形になっている。やはり旧道となるとこうなってしまうようだ。また交通量が減ったことから、以前は追い越し禁止だった峠区間の規制が解除されている。 かつての幹線道路の名残はかなり無くなってしまっている。残るのは峠にあるR166国道標識ぐらいだが、いずれ撤去されてしまうのかもしれない。 |
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<<写真はすべて2009年5月撮影>> |
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◆2009年レポート終わり |
<<MEMO>> |
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■概況・交通量など 現役国道時代と比べると交通量は激減しています。平20年(2008年)7月に旧道を走りましたが、峠での撮影している間も含めてすれ違った車、追い越していった車は0台。地元の方が運転するカブ1台とすれ違っただけでした。峠は静かな峠に戻りました。 宇陀市麻生田から榛原に向かう道となるので廃道にはなることはないと思いますが、いずれは路肩に落ち葉などが積もり少しずつ旧道らしくなるのでしょうか? |
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●走行DATA |
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女寄峠旧道 【桜井市→宇陀市方向を走行】 >>走行日:2007年11月3日/08年7月10日/09年5月14日 |
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注意>>この区間は、現役国道時代 は走行方向問わず頻繁に走行していました。 走行日は旧道となってからの走行日を記載しています。 |
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【合併情報】 ●2006年(平18年)1月1日付けで、奈良県宇陀郡大宇陀町・菟田野町・榛原町・室生村の1村2町が対等合併して『奈良県宇陀市』になりました。各町 村はそれぞれ、『宇陀市大宇陀区』『宇陀市菟田野区』『宇陀市榛原区』『宇陀市室生区』となりました。 |
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【女寄峠旧道終わり】 |