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国道173号線旧道(1)

一庫ダム旧道

●一庫ダム旧道

 兵庫県川西市に広がる知明湖は一庫(ひとくら)ダムによって出来たダム湖。 現在、R173はその西岸をいくつものトンネルを貫いて進んでいる。もちろんこの道はダム建設によって建設された付け替え道路である。

 大路次川右岸に沿って進む狭路があるが、この道もほとんどが付け替え道路。もともと大路次川に沿って進んでいた旧道はダム湖の湖底へ水没してしまった 。しかし渇水期になると旧道の一部と2カ所の隧道が姿を現す。

>>一庫ダム

>>国道173号線一庫ダム旧道(1)

>>Update 2007.01.21

◆一庫ダム旧道

 現在のR173は実に快適な道路である。一庫トンネルを越えると、いくつものトンネルを越えながらダム湖の知明湖を見ながら進む山間の快走路となる。この快走路がダム建設によって建設された付け替え道路であることは容易に察しがつく。こういうサイトを運営していると、『ダム建設前の旧道はどこなのか?』という疑問が浮かぶ。何度か現R173を走るうちに、新圓山TN手前(南側抗口前)付近から分岐する湖岸道路が旧道ではないかと推測するようになった。しかし確証がない。

 サイトでR173旧道について発表したところ、T・Y氏という方から一庫ダム旧道に関するメールを頂き、現在ある湖岸道路も付け替え道路で、旧道はその更に下を通っており旧道のトンネルもあるという情報を得た。ならばと、再びKSRUでの探索を計画するが、現地までの距離が遠く てなかなか行く気が起こらない。綾部までKSRで往復してヘトヘトになったことがよほど応えたのだろう。以来、何度かZRXでR173を走行することがあったが、そのたびに旧道を走らねばという思いにかられる。やっと調査をしたのは2004年(平16年) 2月のこと。メールを頂いてから3年半近く経過していた。(^^;)

 さて、一庫(ひとくら)地区のR173旧道には、一庫ダムが大きく関係する。このダムの建設により現R173が建設され、引き替えに旧道のほとんどが水没した。一庫ダム建設の経緯から述べることにする。

一庫ダム

 

●ダム建設までの経緯

>>戦前のダム計画 

 一庫ダム建設の起源は、戦前の1936年(昭13年)7月5日の阪神大風水害にまでさかのぼる。このときは猪名川が大氾濫して流域に大きな被害をもたらした。この災害をきっかけに、猪名川の治水対策としてダムを建設する計画が持ち上がる。その計画では、現在の兵庫県川西市虫生の猪名川上流にある天狗岩付近に高さ45mの洪水調節ダムを建設することになっていた。ちょうど今の川西市清和台東と川西市水明台の間となる。さらに下流では猪名川を締め切り、藻川を拡張して洪水の疎通を図ることにしていた。工事は1940年(昭15年)に着工されたが、戦争による資材不足により中止された。

>>一庫ダム建設決定

 ダム建設は戦争により一度立ち消えとなったが、1953年(昭28年)9月25日の台風13号により大洪水が発生。猪名川の治水対策が再検討される。さらに1955年(昭30年)以降になると、猪名川下流に広がる阪神工業地帯への工業用水確保の問題が発生。1960年(昭35年)頃に、猪名川の治水ならびに利水の観点から再びダム建設計画が復活することになった。

このときも川西市虫生を中心とする計画が立てられ調査が行われるに至ったが、他に猪名川支流の能勢川の一庫でも調査が行われることになった。

 1966年(昭41年)1月、当時の建設省(猪名川工事事務所)から地元兵庫県川西市に対して、一庫地区における予備調査の申し込みが行われた。地元市民には『寝耳に水』の出来事だったらしく、反対運動が起こる。そこで予備調査は決してダム建設を前提とした調査ではないことと調査結果を報告すること、1967年(昭42年)3月末までに終了することを条件にして、開始されることになった。

 しかし調査は、途中の栗・松茸収穫のための中断などにより長引き、予定を越えた1967年(昭42年)5月末まで延期されたが、それでも終了することはできなかった。建設省は再度延期を申し込み、水没予定地の国崎地区の了解を得られないまま行われ、1967年(昭42年)7月末まで続行した。国崎地区の了解を得ずに調査を行ったことが地元市民の不信感を買ったため、予備調査報告会は1965年(昭43年)2月まで開くことが出来なかった。ようやく開催されたこの報告会では一庫ダム建設が可能であるとの結論が明らかにされる。

 ダム建設実施を前提としない条件で行われた予備調査のはずが、いつの間にかダム建設を

前提としたものになっていた。翌3月、建設省は一庫ダム建設実施と調査を川西市に申し込んできた。また政府内でも水資源開発審議会が一庫ダム建設計画を内閣総理大臣に答申し閣議決定され、ダム建設が決定される。同年10月末、建設大臣は、一庫川(能勢川)と大路次川の両岸の土地の一部を河川予定地として指定、同時に一庫ダム建設に関する事業実施方針を定め、一庫ダム建設に着手することになった。

>>一庫ダムの完成

 地元市民の意見を無視した建設省のやり方に地元市民は激怒。ダム建設に対して”絶対反対”を掲げる反対期成同盟を組織して反対運動を展開。1969年(昭44年)度までダム建設工事は調査・測量すらできない状態が続いた。

 高度成長最盛期の時代、阪神工業地帯への用水確保のため淀川水系の開発は急務であった。国策として行われる以上、この事業が中止される可能性は低かった。また川西市や兵庫県、建設省の周到な根回し策により、地元市民の間には”絶対反対”ではなく、”許容”方針へ転換する考えが生まれてくることになった。

 1970年(昭45年)7月、期成同盟は一庫ダム建設を了承し、基本協定を調印。同盟は『一庫ダム対策委員会』と名称を変更し、運動内容も国道・府道の付け替えや補償に対する条件闘争へと変化した。その条件や過程などはここでは割愛するが、ダム本体工事の開始(1977年5月)、水没地の民家の移転、R173と県道の付け替え工事と湖岸道路(生産者管理道路)の工事完了、を経て、一庫ダムは1979年(昭54年)3月2日にようやくダム本体のコンクリート打設が開始された。建設が決定されてから14年後のことである。

 1981年(昭56年)10月、ダム本体のコンクリート打設が完了し、翌11月より試験湛水が開

始され、試験中の1982年(昭57年)4月に竣工式が行われた。1983年(昭58年)5月に試験湛水が終了し、1984年(昭59年)3月末をもって事業が終了。ここに一庫ダムはようやく完成した。基本計画の決定から実に約19年もの歳月が流れていたのである。

【写真】:現在の一庫ダム。一庫唐松公園から撮影。(2004年2月撮影)

●ダム建設に伴う付け替え道路

 建設了承後の1970年(昭45年)11月から測量が開始される。ダム湖に沈む道路の付け替え道路は、R173が約4.6km、府県道 は約7.9km、合計約11.5kmに及ぶ。このうちR173については阪急日生ニュータウン経由という地元案が提出されていたが、現在のルートで建設することになった。

 現R173の工事がいつ頃から開始されたのかは不明(資料不足)だが、まずはダム本体近くを通る国道迂回路の建設が急がれたものと思われる。この国道迂回路は1977年(昭52年)10月に供用開始。この建設と平行して付け替え道路の建設も進められ、現R173となる付け替え道路は1981年(昭56年)10月に全区間の供用が開始された。

 なお府県道は1976年(昭51年)10月に付け替え道路の建設に着手。82年(昭57年)6月に全区間供用開始されている。

参考資料>>川西市史/一庫ダム物語

国道173号線一庫ダム旧道(1)

概略/ダム本体周辺

○国道173号線一庫ダム旧道

 【概略】

 R173の前身となる兵庫県道/大阪府道池田篠山線は大路次川沿いに進んでいた。この道の歴史をさらにさかのぼれば、丹波篠山と大阪池田を結んでいた丹州街道(丹波街道)が先祖に当たる。しかし丹州街道については時代によっていろいろとルートが変化していた。

 現R173直系の祖先と言えるのは、明治時代に建設された丹州街道と言える。元々丹州街道は、道中険しい山々を越えなければならず、交通運搬は甚だ困難な状態にあった。そこで1880年(明治13年)頃より道路の整備・改良が行われるようになった。この改良工事は1886年(明治19年)頃に完了し、大阪府道丹州街道として開通するに至った。

 この道は後に(1920年(大正9年)?)に府道福住池田線となり、昭和時代に入り終戦後(1953年(昭28年)?)に府道池田篠山線となる。この道がそのままR173に昇格している。 昇格直後はウネウネ進む悪路で3ケタ酷道であったと思われる。

 このうち一庫ダムに沈んだ大路次川沿いに進む旧道区間は、山峡を縫うように通じる一本道で、川沿いにウネウネと進む狭路だった。ひたすら川沿いに進んでいたのではなく、現在の兵庫県川西市民田東部の山間を通る通称『千軒道路』のバイパスともいえる「龍化隧道」と煉瓦造りの「圓山隧道」の2つの隧道が存在していた。これらは付け替え道路が完成するまで国道としての役目を果たし ていたのだろう。

 一庫ダム本体部周辺の旧道はわずかに痕跡を残すだけでほぼ完全に消滅。ダム本体以北の旧道もダム湖湖底に沈み確認はできない。ただ「圓山隧道」から北側の区間は渇水時期になると姿を現すことがあり、遊歩道(満水時は水没)となった旧道が湖周遊道路(管理道)から確認することが出来る。 

参考資料>>川西市史/能勢町史

注>>2004年(平16年)2月は、『風色倶楽部』のツーリングオフ会に参加がてら調査しています。

○国道173号線一庫ダム旧道

  ダム本体周辺

【レポートは川西市山下町→川西市一庫方向(南→北方向)です。】

■R173・r68交差点〜一庫大橋の真下【川西市山下町〜川西市一庫】

 R173を大阪府池田市方面から北上する。延伸した4車線区間が終わり、慢性的な渋滞が発生している兵庫県川西市内を抜けると川西市山下町に着く。R173はここから急勾配の坂道を上り向山TNを抜けて 一庫大橋を渡って知明湖湖岸の付け替え道路区間に入る。

 この急勾配坂道の始まる付近からR173一庫ダム旧道は分岐する。R173の改良によって分岐点付近は大きく変貌してしまったが、側道のように分岐するr68(兵庫県道川西三田線)が旧道である。そのまま整備された2車線道を進むと、中央に能勢電鉄日生線の高架を挟んで東行き西行き車線が分離され、片道2車線幅の快走路になる。R173分岐点から600mほど進むと信号が見えてくる。旧道(というかr68)はこの信号を右折しなくてはならない。この手前で右車線に入っておかないと曲がることが出来ない。速度を出していると通り過ぎるので要注意だ。

 川西市一庫1丁目の信号を右折すると狭い2車線道となって北に向かう。すぐに大路次川を前川

大橋で渡る。この橋の北詰直前にR173の標識と案内標識が設置されているので、それに従って北詰交差点を右折する。前川大橋北詰を右折すると、r604(兵庫県道/大阪府道野間出野一庫線)になるらしい。それらしき標識はなく、 井神野交差点手前にR173の標識が設置されているので国道指定されたままなのかと悩んでしまう。

 さて北詰付近は昔ながらの山間集落の雰囲気を持つ静かな町。周辺のニュータウン街とは全く違った懐かしい風景が広がる。北詰を右折すると、狭い2車線道で川の右岸を進んで行く。上を見上げると遙か高い位置に現R173の一庫大橋が通っている。先ほどの分岐点を直進して坂道を上り向山TNを抜けると 大橋を通り抜けるのだ。

1.R173とr68交差点。旧道(r68)は側道を

  進んで行く。

2.この先の交差点が見逃しやすい。

  (一庫ダム→r68方向を撮影)

3.前川大橋北詰にはR173標識が設置されてい

  る。大橋北詰は右折する。

 

4.大路次川右岸を進むのが旧道。見える橋は

  現R173一庫大橋。

5.一庫大橋橋脚辺りから迂回路に入る。旧道

  は直進していたようだ。

 

■一庫大橋の真下〜井神野交差点【川西市一庫】

 一庫大橋の真下、ちょうど橋脚の基部付近まで来ると妙な道路状態になっていた。道は左の急坂に進むように誘導されているのだが、そのまま直進する2車線道がある。その道には進入できないのだが、明らかに川沿いにそって進んでいる。その道こそダム湖に沈んだR173旧道である。

 坂道に入る。ここからは厳密に言えばR173旧道ではない。ダム本体工事により建設され、1977年(昭52年)10月に供用開始された国道迂回道路である。それでも向山TN〜一庫大橋が供用開始されるまでの間は暫定的にR173だった区間なのだ。

 ダム湖下の公園と事務所に向かう道が分岐する、最初の急カーブを曲がると道は狭い2車線幅のまま急勾配の坂道となる。わずかな距離で標高を稼がないとならないため激坂となっている。50ccバイクだと上るのが大変苦労するような勾配である。80ccのKSRUでも2ndで上るのも苦しかった。2つ目の急カーブを曲がり、急勾配の2車線坂道を一気に駆け上がる。やがて緩やかな坂道となり、現R173との井津野交差点に到着する。前川大橋北詰より約800mである。

6.急坂を上ると緩やかな坂道になる。井神野交

  差点手前にR173標識がある。

  (井神野交差点→前川橋北詰方向を撮影)

7.井神野交差点で現R173と合流する。

  直進するとr604に入り、知明湖の対岸側に

  出てしまう。

8.R173篠山市福住方向から井神野交差点を撮

  影。右に入ると前川大橋北詰に下りるのだが、

  案内表示は右折もR173と記されている。

■一庫ダム本体南側

 ダムの真下付近にあるダム事務所に向かう道のすぐ真下に大路次川右岸を通る道が確認出来る。道幅は1.5車線幅ぐらいで緩やかな坂で川沿いを進んでいる。路面はアスファルト舗装されており、車道であったことが確認できる。ただ400mほど進んだ所で工事用フェンスが設置され、そこより上流(ダム寄り)には砂利が積み上げられていた。道路らしき構造物は、一庫橋付近まで続いており、そこより上流は道路はなくなりダム本体の基礎部となっていた。

 この道が旧道だったか確証はない。旧道は事務所に向かう道の基礎部となり消滅した可能性が高い。残っているのは、迂回路供用開始以後に建設された工事用道路なのかも知れない。

9.写真5から延びる道路はフェンスで閉鎖され

  ていた。

10.道路上より見た右岸。途中まではかつての

  旧道か?

11.道は砂利置き場となり、橋の付近で消えてい

  る。向こうに見えるのが一庫ダム。

 

12.旧道自体は道路の基礎になり消えたかも

  しれない。

13.写真12の標識を拡大。川原を歩く人を対象

  にした標識だろう。

 

<<MEMO>>

■概況・交通量など

 本来の旧道区間はr68分岐点〜一庫大橋真下付近までの約1kmぐらいでしょう。残りはダム本体工事関連で建設された迂回道路です。一応r604に指定されているようですが、標識などは見あたらないので正確なところは分かりません。

 さて道路自体は現役の道路だけあって整備はされています。土日などは一庫大橋付近から渋滞が発生していることがあり、抜け道として通る車も多く、意外と知られている道路のようです。交通量もそれなりにあります。

■アドバイス

 迂回道路の急坂区間はかなりの急勾配です。自転車や原付1種バイクではかなりつらいものがあります。特に下りは要注意です。

■注意点

 歩行者に注意して下さい。また冬期は路面凍結・積雪があるので走行は要注意です。

●走行DATA

川西市山下町〜川西市一庫

【南→北方向を走行】

>>走行日:2000年 5月12日/2004年2月17日

【北→南方向を走行】

>>走行日:2004年12月10日

取材協力(同行走行)>>satounoさん(2004.02.17)

>>国道173号線一庫ダム旧道(2)

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