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国道368号線旧道(2)

仁柿峠旧道

横野地区旧道

粥見バイパス旧道

多気郡多気町(旧:勢和村域)旧道

◆国道368号線仁柿峠旧道

●仁柿峠の伊勢本街道

 津市美杉町(旧:一志郡美杉村)多気と松阪市飯南町(旧:飯南郡飯南町)上仁柿の間には仁柿峠(櫃坂峠)という峠がある。

市境(かつての町村境)は峠から西寄りにあるので、峠自体は松阪市飯南町上仁柿地区にある。

 この峠を伊勢本街道は越えていた。急勾配の峠道で難所となっていた。難所であることは今も変わりはないが、江戸時代の徒歩主体だった時代は峠道を上り下りするだけで大変 で、峠付近には旅籠が建ち並び小さな宿場町のようになっていた。

 歴史的に見ると、仁柿峠を越える伊勢本街道は江戸時代からで、江戸時代以前の伊勢本街道は今の位置よりも南側を通っていた。そのルートを含めると、津市美杉町と松阪市飯南町の間には3ルート存在したことになる。

 R368の先祖となるのは江戸時代の伊勢本街道になるが、江戸時代以前の伊勢本街道も含めて説明する。

●変遷

 現代に至るまでの間に津市美杉町と松阪市飯南町の間には『古坂道』『櫃坂道』『新道』の3つの街道・道路が設けられた。最も古い『古坂道』は7世紀頃にまで遡るので、かれこれ1400年近い歴史を持つ峠道ということになる。

1)古坂道

 津市美杉町と松阪市飯南町を結ぶ最古のルートで、伊勢本街道の原道とされる。記録によれば、7世紀に伊勢から朝廷に水銀と硫黄が献上されとあり、以来大量の水銀が伊勢本街道を経て奈良の都に運ばれたと推測されており、その頃から存在したものと思われる。ちなみに『櫃坂』や『仁柿』という地名は奈良時代の水銀輸送に由来すると言われている。

 ルートは江戸時代の伊勢本街道とは違い、美杉町多気から丹生俣に南下し、ここから東に向かい、郡峠だった”城口(じょうこ)”を経て、飯高町上仁柿の奥峠(*1)に出、さらに「古坂」と呼ばれる峠道を下って上仁柿地区の坂之下(今の坂下)にある櫃坂口に出ていた。

 このルートが脚光を浴びたのは14世紀になってからで、延元三年(1338年)に北畠顕能が伊勢国司に任ぜられ、美杉町多気に本拠を構えてからであった。以来、古坂道は南勢諸郡から多気に運ばれるほとんどの物資の搬入路として、また軍用路として利用された。しかし天正四年(1576年)に織田信長によって北畠氏が滅亡すると、古坂道の役割は西国からの参宮道者の道になった。そして江戸時代に入り、寛文年間(1661〜72年)に紀伊藩が参宮客のために櫃坂を整備すると、古坂道は一気に廃れてしまった。

 この古坂道は消失してはおらず、作業用の林道として残っているそうだ。国土地理院発行の地図には、美杉町丹生俣から飯南町上仁柿の奥峠の間に点線が描かれているが、この道が古坂道の後身と思われる。

2)櫃坂道

 江戸時代に整備された街道で、一般的に”伊勢本街道”といえばこの「櫃坂道」のことを指す。古坂道とは別ルートの街道だった。ルートとしては美杉町多気からは立川沿いに東に進んで上仁柿の口峠(仁柿峠)に出、ここから急坂(櫃坂)を谷間に下り、あとは川沿いに上仁柿地区の坂之下に出ていた。

 元和五年(1619年)に徳川頼宣が紀伊国紀州藩藩主として転封されると、美杉町や飯南町地域は紀州藩領となった。紀州藩領となってからは、領内の道路や宿場が整備されて伝馬制も整えられていった。伊勢本街道も整備が行われ、寛文年間(16

61〜72年)にそれまでの古坂道とは別ルートの櫃坂道が整備された。いわば”古坂道”のバイパス道路ということになる。

 櫃坂道は伊勢神宮への参宮客のメインルートとして利用された。近くでは多気(美杉町)と大石(松阪市)に大きな宿場町が整備されたが、両宿場町間が距離が長い上に、仁柿峠(櫃坂峠)という難所を抱える区間であったことから、櫃坂道の途中の峠地区や仁柿などに旅籠が出来たりした。

 しかし伊賀の青山を越える初瀬街道が整備されると次第に利用者の数が減り始め、明治中期になって鉄道が整備されると街道としての役目を終えてしまい、櫃坂道は林道となって余生を送ることになる。

3)新道

 現在のR368となるのが「新道(しんどう)」と呼ばれる道路である。

 伊勢本街道(櫃坂道)は参宮のための使命を終えたものの、美杉町多気と松阪を結ぶ物資輸送路としての役目は続いていた。明治35年(1902年)から伊勢本街道(別名:伊勢中街道)の大改修工事が開始され、この工事の中で櫃坂道に変わる道路として新たに道が建設された。

 美杉町多気〜仁柿峠までは江戸時代の伊勢本街道を整備したが、峠を越えてからは櫃坂の北桑谷川源流を大きく迂回するルートをとり、口峠から上仁柿の坂之上石戸に下る全長約4kmの新設道が建設された。工事は明治36年(1903年)頃から始まったが、険しい山奥に道路を作ることから難工事となり、完工して道が開通したのは日露戦争後のことであった。

 開通時は道幅2m弱の馬車道であったが、多気と松阪を結ぶ物資輸送路として利用され、大正時代には馬車や荷車が木材や木材製品などを盛んに輸送していた。その後、「県道名張柿野線」に指定されると車道として整備されるようになり、道幅も拡幅されていった。新道は「県道名張御杖飯南線」を経て、昭和50年(1975年)4月に国道368号線に指定されて現在に至っている。

●R368仁柿峠バイパス

 現在のR368は、明治時代に建設された「新道」の後身の道路となる。見通しの悪い急カーブが連続する狭路坂道 と路面状態の悪い道路が続く。見通しの悪い小刻みなカーブが連続することから、離合困難であり大型車の通行も困難となっている。

 そのため現道に変わる全長4.3kmのバイパス道路が計画された。これが『仁柿峠バイパス』。当初は現道拡幅も検討されたが、山岳道路であることから良好な線形を得られず、また長期通行止めが必要であることからバイパス建設ということになった。

 バイパス道路建設では地形が問題となった。バイパス道路の仁柿峠前後は山深い所を通り、津市美杉町側(事業化の頃は一志郡美杉村)の標高が、松阪市飯南町(同じく飯南郡飯南町)側より高いことが問題となったのだ。この標高差を解決して道路を建設するとすれば、道路規格にあった縦断勾配を確保 して山の斜面に沿って長い坂を設けるか、標高の低い場所に長大トンネルを建設するかのどちらかとなった。結局はトンネル建設には莫大な予算が必要となることから、(トンネル建設に比べると)予算の少ない斜面に沿って道路を建設する前者の案が採用された。 

 バイパス計画は平成2年(1990年)度に事業化され用地買収を開始。平成4年(1992年)度から事業着手された。事業着手後(建設開始後)は、山腹を切土盛土しながら道路が建設されて行った。しかし仁柿峠付近を含めた一帯の地質は脆弱で地滑りや斜面崩壊の恐れがあるため、道路の法面対策に費用と時間がかかり事業が停滞してしまった。さらに予定区間内に要注意地形の存在が確認されたことから、ルート変更も含めて工法の抜本的な見直しが行われることになった。

 当初計画では平成20年(2008年)度末に供用開始(事業終了)の予定であったが、計画の見直しや厳しい財政事情などにより事業は一時中断に至った。現在は平成29年(2017年)度の供用開始を目標に事業再開を目指している。

 なお、仁柿峠バイパスは松阪市飯南町(当時は飯南郡飯南町)上仁柿地区の380mだけが平成9年(1997年)に先行供用開始されている。

*1:奥峠という集落は、R368現道の仁柿峠(櫃坂峠)にある廃集落(口峠というらしい)から、さらに立川沿いに奥に進んだ場所にあった集落であるが、

   すでに廃村(廃集落)となっている。

参考資料・文章引用元>>飯南町史(昭和59年刊)/三重県公共事業情報

■国道368号線仁柿峠旧道【平成20年(2008年)レポート】

>>Update H22(2010).06.01

○国道368号線仁柿峠旧道

  【平成20年(2008年)レポート】

 R368仁柿峠バイパスは、平成9年(1997年)に約400mの区間が先行供用開始されている。R368現道の2車線道端点から集落内に向かう連絡道路手前(R166寄り)の2車線坂道がその区間となる。この区間は集落内を行く旧道が存在している。@管理人がR368仁柿峠を初めて訪れたのは平成8年(1996年)からで、その当時から旧道の存在は知っていたものの、実際に走ったのは12年も後の平成20年(2008年)であった。(^^;) バイパスの建設が計画通りに進んでいれば、旧道となった峠越え区間を含めて走っていたはずである。

 平成22年(2010年)時点で仁柿峠バイパスの残り約4kmは未開通のままで、狭路急坂の続く越え区間は現役国道となっている。なので現時点でのバイパス旧道は上仁柿地区の僅かな距離だけということになる。峠越え区間を含めて旧道となるのは早くとも平成29年(2017年)度なので、この状態はまだ続くのだろう。

 仁柿峠旧道は上仁柿地区〜市境付近までとなる。このうち旧道が存在するのは、現時点で上仁柿地区のみ。仁柿峠バイパス旧道と上仁柿地区旧道の2つが連続しているが、それぞれ別々の事業で建設されたバイパス道路の旧道である。

【レポートは仁柿峠→R166方向(西→東方向)です。】

■仁柿峠旧道【仁柿峠バイパス旧道】

 R166との粥見赤滝交差点からR368を仁柿峠(櫃坂峠)に向かう。整備された走りやすい2車線道が続くが、松阪市飯南町(旧:飯南郡飯南町)上仁柿地区で突然終わり、急坂の道路で仁柿川を挟んだ対岸を進む狭路に誘導される。仁柿峠バイパスが全通していない今の時点では、連絡道路との合流点からR166方向の区間、仁柿川を挟んで現道の北側を通る狭路が仁柿峠旧道となる。

 やや狭い2車線幅の坂道(連絡道路だがR368)を下ると、右側からやってくる1.5車線狭路と合流する。この狭路がR368仁柿峠旧道。平成9年(1997年)に仁柿峠バイパスの一部区間が供用された時に、それに相当する区間だけが先に国道指定を解除された。 

 旧道は1〜1.5車線狭路で仁柿川沿いにR166に向かって進んで行く。ほどなくして上仁柿地区の集落内を通る。伊勢本街道の後身となる道となるので、どことなく旧街道の面影が残る道が続く。吹ヶ野地区に至ると、南俣川沿いを南俣地区に進む道(南俣道)の分岐点を過ぎ、すぐ先で神名原(しでわら)地区に向かう道との分岐点に至る。この分岐点角には『左はせなら道』『すぐいせ』と刻まれた古い道標が残っており、旧街道の追分であったことが伺える。

 この分岐点を西に向かうとR368現道に出ることが出来る。バイパス一部供用開始前は、この分岐点からR368現道に連絡していたと思われる。おそらくはここからが仁柿峠バイパス旧道ということになる。現時点でバイパス旧道の距離は400mほどである。

1.R368バイパスからの連絡道路を下りると狭

  路と合流する。右から来るのが旧道。

2.旧道はローカルな生活道路。仁柿川に沿って

  進んでいる。

3. 神名原に向かう道との交差点角に道標があっ

  た。(R166→仁柿峠方向を撮影)

<<写真はすべて平成20年(2008年)10月撮影>>

■仁柿峠旧道【上仁柿地区旧道】

 神名原(しでわら)への道分岐点から南の区間は、別事業によって建設されたバイパス道路の旧道となる。『飯南町史』によると、旧街道時代から上仁柿地区の長瀬地区辺りは切り立った岩の下を行く難所であった。その難所において、昭和49年(197

3年)7月末の集中豪雨で大規模な崖崩れが発生したことから、対岸の仁柿川南岸に新道を建設。昭和54年(1979年)に開通したと記述されている。このときに旧道になった区間だろう。

 神名原への道分岐点を過ぎてしばらく進むと民家が途切れ、少しだけ鬱蒼とした林の中を進むようになる。仁柿川のすぐそばを通り、やがて長瀬地区の集落に入る。小さな川を渡って少し進むと集落は途切れ、再び鬱蒼とした谷間を進む。

 やがてR368現道との交差点に到着。連絡道路合流点から約1.6kmである。旧道はそのまま現道を横断し、民家を回り込むように200mほど進んでR368現道と合流する。 ここが旧道東側分岐点となる。

4.平坦な1.5車線道を進んで行く。今は生活

  道路となって余生を送る。

5.再び集落内に入り、平谷橋という橋で川を渡

  る。

6.この先で民家が途切れる。

 

7.落石防止のための鉄骨が組まれている。

  現役国道時代からのものだろう。

8.ローカル道らしく鬱蒼とした谷間を進んで行く。

  交通量はかなり少ない。

9.やがてR368現道との交差点に到着。旧道は直

  進してまだ続く。

 

10.民家を回り込むように進んで行く。

11.ここが東側分岐点となる。

 

<<写真はすべて平成20年(2008年)10月撮影>>

◆平成20年(2008年)レポート終わり

<<MEMO>>

■概況・交通量など

 上仁柿地区は昭和54年(1979年)に開通したバイパス道路と平成9年(1997年)に400mほどが供用された仁柿峠バイパスの2つのバイパス旧道があります。その境は写真3の地点、神名原への道が分岐する交差点と思われます。

 仁柿峠バイパスがほとんど出来ていないため、平成22年(2010年)5月時点で同バイパスの旧道が認められるのは、レポートにある上仁柿地区内の短い距離だけとなります。バイパスが全通すれば、連絡道路から先、仁柿峠を越えた付近までの現役国道区間(約4km)の狭路も旧道になりますが、まだ当分先のようです。

 上仁柿地区の旧道は集落内を通る生活道路となっています。

■注意点

 冬期は路面凍結・積雪があるので注意してください。

参考資料・文章引用元>>飯南町史(昭和59年刊)

●走行DATA

仁柿峠旧道

【仁柿峠→R166方向を走行】

>>走行日:平20年(2008年)10月9日

【合併情報】

●平成17年(2005年)1月1日付けで、一志郡嬉野町、一志郡三雲町、飯南郡飯南町、飯南郡飯高町の5町が三重県松阪市と対等合併して『三重県松阪

 市』になりました。このうち、飯南町は『松阪市飯南町』になりました。

●平成18年(2006年)1月1日付けで、三重県久居市、安芸郡河芸町、安芸郡芸濃町、安芸郡美里村、安芸郡安濃町、一志郡香良州町、一志郡一志町、

 一志郡白山町、一志郡美杉村の1市7町1村が三重県津市と対等合併しました。このうち一志郡美杉村は『津市美杉町』になりました。

【仁柿峠旧道終わり】

国道368号線横野地区旧道

 現在のR368は、R166との粥見赤滝交差点から2車線道で飯南町横野地区を経て下仁柿地区に向かっているが、この道はバイパス道路である。旧道は横野地区の町中を通る狭路なのだが、調べてみるとR368現道となるバイパス道路は国道昇格前の県道時代に供用開始されていた。なのでR368旧道とはならないが、 伊勢本街道がらみで載せている。

 さて、現在の横野地区の町中を行く狭路は伊勢本街道の後身の道筋。江戸時代の伊勢本街道は、飯南町下仁柿地区から仁柿川北岸を経由して横野地区に通じていた。『飯南町史』(p.842)には、江戸時代の街道は『森家前からセンター裏を通り、(柿野)神社前に出た』と記載されている。このセンターというのは飯南町民センターという施設らしいが、現在はそのような施設はなく、「飯南町郷土資料館」がそれに当たるのだろう。この裏手(山側)の狭路が江戸時代の伊勢本街道らしい。

 明治35年(1902年)、横野地区の町中を通る街道筋の大改良工事が行われ、町民センター(現:郷土資料館?)前を通って待月の辻にでる新道(明治新道)が整備された。この道がそのまま県道に引き継がれ、県道名張柿野線→県道名張御杖飯南線となった。

 道は町中を通る1車線狭路であったため、昭和40年代中頃からの車社会には対応できなくなり、町の南側を通るバイパス道路が計画された。昭和45年(1970年)度頃から事業化されたようで、完成がいつ頃かは不明であるが、国道368号線に昇格する昭和50年(1975年)4月より前に完成したようだ。

 R368現道の赤滝〜横谷入口までのバイパス道路が開通したため、町中を通る狭路は飯南町道(現松阪市道?)に編入された。今は地区の生活道路となっているが、もとは伊勢本街道にまで遡る由緒ある道路なのだ。

 なお飯南町横野地区の待月辻から東の伊勢本街道は、和歌山街道と重複して松阪方面に向かう。R166現道がその道筋なのだが、その道も明治24年(1891年)に開通した(明治)新道。江戸時代の伊勢本街道は、柿野神社東側を山手に少し上り、R166現道の一本山手寄りを進んで宝積寺前に出る道とのこと。

参考資料・文章引用元>>飯南町史(昭和59年刊)

■国道368号線横野地区旧道【平成20年(2008年)レポート】

>>Update H22(2010).06.01

○国道368号線横野地区旧道

  【平成20年(2008年)レポート】

【レポートは仁柿峠→R166方向(西→東方向)です。】

 下仁柿地区からR166に向かうと、横野地区に入った辺りで左に分岐する狭路がある。この道が県道時代の旧道で、江戸時代からの伊勢本街道。県道時代にバイパスが開通して旧道になったので、R368に指定されたことはない。

 旧道は平坦な1車線狭路。長閑な町中を淡々と進んで行く。やがて横野地区の町中へと入る。『飯南町史』によると、町中は明治35年(1902年)から整備された(明治)新道の後身の道。本来の伊勢本街道は現道の山手を通るそうだ。

 分岐点から700mほど進むとR166が見えてきて、”待月の辻”と呼ばれた伊勢本街道と和歌山街道(高見越伊勢街道)との辻に到着する。現在は国道と市道との信号がない交差点で、一見するとなんてことはない町中の交差点であるが、実は旧街道同士が接する由緒ある場所なのだ。交差点角になる『待月旅館』という宿は、江戸時代から続く由緒ある旅館とのこと。かつては木造二階の立派な宿だったらしい。また交差点角には3m近い大きな常夜燈があったのだが、道路整備により柿野神社内に移設されている。

1.R368現道から左に向かう道がかつての伊勢

  本街道。(仁柿峠→R166方向を撮影)

2.旧道はのんびりした平坦な狭路で進む。こ

  の道は国道になったことはない。

3.やがて横野地区の町中へと入って行く。町中

  は明治時代に整備された道の後身。

 

4.やがてR166に出る。かつての伊勢本街道と

  和歌山街道の辻。左が松阪市方面となる。

  以前、交差点角には常夜燈があったらしい。

5.高見峠から松阪市方向を見る。交差点には

  信号がない。左の狭路が旧道。角にあるの

  が待月旅館。由緒ある旅館。

 

<<写真はすべて平成20年(2008年)10月撮影>>

◆平成20年(2008年)レポート終わり

<<MEMO>>

■概況・交通量など

 町中を行く生活道路となっていますが、元を辿れば伊勢本街道だった由緒ある道です。

■注意点

 伊勢本街道を巡る方々の姿を見かけます。歩行者・自転車に注意してください。

参考資料・文章引用元>>飯南町史(昭和59年刊)

●走行DATA

横野地区旧道

【仁柿峠→R166方向を走行】

>>走行日:平20年(2008年)10月9日

【合併情報】

●平成17年(2005年)1月1日付けで、一志郡嬉野町、一志郡三雲町、飯南郡飯南町、飯南郡飯高町の5町が三重県松阪市と対等合併して『三重県松阪

 市』になりました。このうち、飯南町は『松阪市飯南町』になりました。

【横野地区旧道終わり】

国道368号線粥見バイパス旧道

 国道368号線粥見(かゆみ)バイパス(L=1100m)は、平成14年(2002年)12月27日に開通したバイパス道路。それまでのR368は旧和歌山別街道沿いのルートを進んでおり、松阪市飯南町(旧:飯南郡飯南町)粥見地区の粥見神社前を経由していた。旧街道沿いの町中を行く狭路であったために、これを迂回するように建設されたのがバイパスということになる。

 旧道は町中の生活道路となり余生を送っている。

 

 

■国道368号線粥見バイパス旧道【現役国道時代】

国道368号線粥見バイパス旧道【平成20年(2008年)レポート】

>>Update H22(2010).06.01

○国道368号線粥見峠旧道

  【現役国道時代】

 現役国道時代のR368旧道は何度か走行している。R166からR42に抜けるためである。撮影してあるデジカメ写真としては平成13年(2001年)頃が一番古いものであるが、プリント写真でも何枚か撮影しているように記憶している。探してみて写真があればまた追加する予定です。

【レポートはR166→桜橋方向(西→東方向)です。】

 バイパス開通前のR368分岐交差点は、飯南郡飯南町粥見にある粥見出鹿交差点、今のR166とr710(県道飯南三瀬谷停車場線)との交差点である。R166松阪方面から見ると、左に分岐する2車線道がR368であり、交差点角にはR166とR368の国道標識が設置されていた。

 R166から分岐したR368は緩やかな2車線坂道を下り、粥見神社東裏付近で左折する。粥見追分と呼ばれた、和歌山街道(高見越伊勢街道)と和歌山別街道との分岐点である。バイパス開通前まではR368とr710の交差点で、この交差点手前にはR368国道標識が設置されていた。

 交差点を左折すると、旧街道の町並みを残す町中を1.5車線狭路で進み、町中を抜けると2車線幅の道となって櫛田川を渡る桜橋に至っていた。

1.R166とR368交差点。右がR166で、左が

  R368であった。

2.写真1の正面民家を拡大。R166(右)、R368

  (左)の国道標識が設置されていた。

3.R368は2車線道で始まっていた。緩やかな坂

  道を下る。

4.粥見神社東にある粥見追分。R368は左折し

  ていた。

5.交差点にあった案内標識。標識の向こうは

  粥見神社。

6.神社前からは旧街道の面影を残す町中を進

  む。(桜橋→粥見神社方向を撮影)

 

 

7.町外れで当時建設中の粥見バイパスが分

  岐していた。

 

 

<<写真はすべて平成13年(2001年)5月撮影>>

注意>>市町村名は走行当時の名称です。

◆平成13年(2001年)レポート終わり

○国道368号線粥見バイパス旧道

  平成20年(2008年)レポート

 粥見バイパスが開通した後、何度かR368は走っているし、この付近のR166も何度も走っている。しかしR368粥見バイパス開通後に旧道は走っておらず、ようやく走ったのは開通後6年後となった。

【レポートはR166→桜橋方向( 西→東方向)です。】

 松阪市飯南町(旧:飯南郡飯南町)粥見のR166とr710(県道飯南三瀬谷停車場線)との粥見出鹿交差点が旧道西側分岐点である。交差点角にあったR368の国道標識は撤去されてポールだけが残っている状態。粥見追分手前の標識も撤去されて、r710のヘキサ標識が設置されていた。

 粥見出鹿交差点から100mほど進んだ粥見神社東で左折すると、旧街道の町並みが残る粥見の町中を進んで行く。平坦な1.5車線狭路道を300mほど進むと、左側から整備された2車線道が近づいてくる。R368粥見バイパスだ。ほどなくして旧道の東側分岐点に到着する。

 現役国道時代の道路は直進していたが、バイパス建設にあたって交差点の改良が行われ、旧道と現道(バイパス)がT字交差点を描くような形になってしまった。

1.粥見出鹿交差点。R166とr710交差点が旧

  道西側分岐点。左がr710。

2.交差点正面の民家前を拡大。写真左側にあ

  ったR368国道標識のみ撤去された。

3.交差点からは緩い2車線坂道を下る。交差点

  には標識のポールだけが残る。

4.粥見神社東側の交差点で左折する。

  ここにはR368の国道標識があった。

5.平坦な1.5車線幅の狭路で粥見の町中を

  進んで行く。

6.今は地区の生活道路となっている。旧街道の

  町並みが残る。

 

7.東外れで現道(バイパス)と合流する。昔は

  直していたが、今はこうなっている。

8.直進は通り抜けできないことを表示していた。

  左に見えるのは現道の国道標識。

 

<<写真はすべて平成20年(2008年)7月撮影>>

◆平成20年(2008年)レポート終わり

<<MEMO>>

■概況・交通量など

 今は地区内の生活道路となっています。

参考資料・文章引用元>>飯南町史(昭和59年刊)

●走行DATA

粥見バイパス旧道

【R166→桜橋方向を走行】

>>走行日:平13年(2001年)5月11日【現役国道時代】/平20年(2008年)7月10日/他

 

注意>>この区間は、現役時代も含めて、走行方向問わず何度か走行しています。走行日は使用写真の撮影日のみを記載しています。

【合併情報】

●平成17年(2005年)1月1日付けで、一志郡嬉野町、一志郡三雲町、飯南郡飯南町、飯南郡飯高町の5町が三重県松阪市と対等合併して『三重県松阪

 市』になりました。このうち、飯南町は『松阪市飯南町』になりました。

【粥見バイパス旧道終わり】

国道368号線多気町内旧道

 多気郡多気町のうち、旧多気郡勢和村域をR368はほぼ東西に貫いている。多気町(旧:勢和村)古江までは和歌山別街道に沿うルートを通り、古江から東は熊野街道(現R42)と和歌山別街道を結んでいた柳原観音道のルートに沿っている。現在は町道や県道の一部となっている。

 R368が誕生したのは昭和50年(1975年)4月であるが、『飯南町史』によると、飯南郡飯南町粥見(当時)〜多気郡多気町の区間が国道指定されたのは昭和52年(1977年)と記されている。飯南町からR166〜R42と重複して多気郡多気町に向かっていたのを、現ルートに変更して多気町に向かわせたのだろう。

 飯南町勢和村境〜勢和村古江までのR368現道は別ルートで建設されたバイパス道路。旧道は現道に沿うように続く狭路である。バイパスであるR368現道がいつ頃開通したのか資料がないので、国道指定された昭和52年以前に旧道が国道であったかどうかは不明であるが、ここではR368旧道として取り扱っている。m(_ _)m

 勢和村古江〜多気町のR368現道も一部は拡幅しているが、多くは別ルートで建設されたバイパス道路となっており、旧道が存在している。

参考資料・文章引用元>>飯南町史(昭和59年刊)/勢和村史(平成11年刊)

■国道368号線多気町(旧:勢和村域)旧道【 平成20年(2010)年レポート】

国道368号線 多気町(旧:勢和村域)旧道【色太バイパス旧道】

>>Update H22(2010).06.01

○国道368号線多気町(旧:勢和村域)旧道

  【平成20年(2008年)レポート】

 多気郡多気町西部の旧:多気郡勢和村内のR368は、ほとんどが2車線道となっている。桜峠を越えて旧勢和村内に入り、しばらく進むと朝柄地区の上出集落に至るが、この付近から狭路が現道に並行していることに気が付く。この並行する狭路がかつての街道の後身となる道であろう。この道は村道や県道になっているが、資料がないので国道昇格時に指定されていたかどうかは不明である。ひとま ず当サイトではR368旧道として取り扱い掲載している。

【レポートは桜峠→R42方向(西→東方向)です。】

■多気郡多気町【朝柄地区】

 櫛田川を桜橋で渡ると、R368現道は山間へと入って行く。桜峠を越えると多気郡多気町(旧:多気郡勢和村域)朝柄に入る。

3kmほど進むと朝柄地区の上出という集落に至る。集落の西端で、文後トンネルを抜けて多気町車川地区に向かう町道(←村道)分岐点がある。ここの分岐点で右に別れる道が旧道である。

 旧道は半円を描くような形ですぐに現道と交差。その先で左に分岐すると集落内を行く狭路となる。地区の生活道となっており、沿道には民家と畑が広がる。約1.3km進み、R368現道の中切橋東詰で現道と交差し、現道の南側に出て東に向かう。 ほどなくして中出地区の集落に入る。平坦な狭路をしばらく行くと朝柄川を渡り、川を挟んでR368現道と並行しながら下出地区へと入って行く。

 しばらく平坦な1.5車線道を進むと、朝柄川を挟んだ向こう側にR368現道の朝柄交差点が見えてくる。ほどなくして、R368現道から分岐して朝柄川を渡ってきたr429(県道佐原勢和松阪線)と合流する。

1.東側分岐点。木を囲むように回り込むのが旧

  道。すぐ先で現道と交差する。

2.反対側(R42寄り)から見る。旧道はそのまま

  現道を斜めに突っ切るように来たのだろう。

3.旧道分岐点。集落内に入る狭路が旧道。

  この付近は町道(←村道)らしい。

4.平坦な狭路で上出地区の集落内を進んで行

  く。のんびりした光景。

5.やがて民家や農家が途切れる。

 

6.ここでR368現道と交差する。旧道は直進して

  行く。写真左がR368現道の朝柄交差点方面。

7.中出地区内を行く。日本家屋が多くなり、

  旧街道筋という感じの町中を行く。

8.朝柄川の南側を行く。対岸(北側)はR368現

  道。

9.淡々と川沿いに進んで行く。この先でr429と

  合流する。

<<写真はすべて平成20年(2008年)7月撮影>>

■多気郡多気町【古江地区】

 旧道はr429となってR368現道の南側を進む。最初は2車線道だったが、すぐに1.5〜狭い2車線道となり、多気郡多気町(旧:勢和村域)古江地区の町中に入る。昔ながらの家屋が建ち並ぶ旧街道沿いの町を抜けると、r421(県道勢和兄国松阪線)との交差点に到着。和歌山別街道の後身となるルートは左であるが、R368旧道は右に向かう。

 r421分岐後は1〜1.5車線の狭路を進むが、やがてr429から分岐して町道(←村道)となる。民家が途切れて山間へと入ると、少し鬱蒼とした場所を進むようになる。用水路をアンダーパスしてから少し進むと狭い2車線道となり、やがて左側から2車線道のR368現道が近づいてきて合流する。r429交差点から約1.8km、朝柄上出の分岐点から約4.7kmである。

10.旧街道筋らしい町並み。平坦な1.5車線道

  で進んで行く。

11.r421交差点。r421は左に向かう。旧道こと

  r429は右の狭路を進む。

12.やがて鬱蒼とした山中に入ると、用水路を越

  える。(R42→R166方向を撮影)

13.淡々と狭路を進んで行く。

14.山中から抜けると2車線道になる。

15.ここでR368現道と合流する。

<<写真はすべて平成20年(2008年)7月撮影>>

◆平成20年(2008年)レポート終わり

○国道368号線多気町内 (旧:勢和村域)旧道

  色太バイパス旧道

■現役国道時代

 R368色太バイパスが開通したのは平成15年(2003年)度末、つまりは平成16年(2004年)3月中旬か下旬頃のことだったように記憶している。 勢和村朝柄からR42に向かって2車線道を走ってくると、色太地区で狭路となっていた。距離的には短く1kmほどで、すぐに2車線道となってR42に向かっていた。R368のR166〜R42間において、粥見地区と並んで最後まで未整備区間であった。

 

 

1.狭路区間の現役国道時代。倒れかけた国道

  標識があった。現役時代の写真はこれだけし

  かない。

 

 

<<写真は平成13年(2001年)5月撮影>>

注意>>市町村名は走行当時の名称です。

■旧道時代【平成16年(2004年)】

 次に訪れたのは平成16年(2004年)5月末。色太バイパスが供用開始となった直後の頃である。真新しい2車線道から、狭路の旧道が分岐していた。この頃は区間内にR368国道標識が残っていた。

1.旧道西側分岐点。右に別れるのが旧道。

  R368バイパスは真新しい2車線道。

2.分岐点付近は整備され、現道と旧道との交

  差点が設置された。

3.現役時代と同じ場所で撮影。まだ残っていた。

  国道標識は支柱ごと新しくなっていた。

 

 

4.色太バイパス旧道内で撮影したと思われる

  が、どの辺りだったか不明・・・。m(_ _)m

 

 

<<写真はすべて平成16年(2004年)5月撮影>>

注意>>市町村名は走行当時の名称です。

■旧道時代【平成20年(2008年)】

 R368再走行を行った時に色太バイパス旧道を再走行してみた。道自体には変化はなく、地区の生活道路となっている。旧道内にあったR368国道標識は撤去されていたが、案内標識のR368表示は消されずに残っていた。国道時代の面影があるのはこれだけである。

1.西側分岐点から旧道に入る。右に向かう狭路

  が色太バイパス旧道。

2.国道標識は支柱ごと撤去されてしまった。

  ガードレール横の木の成長がよく分かる。

3.町道との分岐点に案内標識があった。

  (R42→R166方向を撮影)

 

4.写真3の拡大。R368表記がされている。国道

  の面影があるのはこれだけとなった。

5.東側分岐点。本来は直進していたが、遮断さ

  れて左に誘導されている。

 

<<写真はすべて平成20年(2008年)7月撮影>>

<<MEMO>>

■概況・交通量など

 R368旧道は地域の生活道路となって余生を送っています。他にも旧道が存在していますが、走行しているのは記載している旧道だけとなります。

 R42交差点付近にも旧道があるのですが、こちらは今だに走っていません。機会があればまた走ってきます。

■注意点

 歩行者などに注意してください。

●走行DATA

多気郡多気町(旧:勢和村域)旧道

【両方向を走行】

>>走行日:平13年(2001年)5月11日【現役国道時代】/

平16年(2004年)5月25日/平20年(2008年)7月10日/他

注意>>この区間は、 現役時代・旧道時代も含めて、走行方向問わず何度かに走行しています。

走行日は使用写真の撮影日のみを記載しています。

【合併情報】

●2006年(平18年)1月1日付けで、多気郡多気町と多気郡勢和村の1町1村は対等合併して『三重県多気郡多気町』になりました。

【多気郡多気町(旧:勢和村域)旧道終わり】

 

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