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国道42号線旧道(1)

水越峠旧道

●水越峠旧道

 和歌山県有田郡広川町と日高郡日高町の境にあるのが水越峠。かつては難所だった峠だが、現在のR42は水越トンネルで峠を越えている。

 R42水越峠の旧道ルートは複雑で、現在のルートに落ち着くまで3回もの大きな変更が行われた。なお、熊野街道(古道)は水越峠の東に位置する鹿ヶ瀬峠を越えていたので、水越峠越えのルートは 江戸時代までの熊野街道のルートには含まれない。

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◆水越峠旧道の謎

 バイパスが出来たあと、その旧道はバイパスに沿って残っているものである。廃道と化して自然に戻ったり、バイパスの基礎になったり、ダム湖に沈んだりして消失する場合もあるが、どこかに痕跡が残っている場合が多い。またバイパスから遠く離れて迂回している道が旧道という場合もあるが、バイパスと旧道は必ずどこかで分岐・合流しているものである。

 R42水越峠を走ってみると、現在の道が別ルートで建設されたバイパス道路であることがすぐに分かる。ではR42水越峠旧道はどこにあるのだろうか?気にな ったので調べてみる。

 地図を見ると、現在のR42に併走するような形でr23(県道御坊湯浅線)とr177(県道南金屋由良線)という県道がある。これらが旧道かと思い、まずr177を2003年(平15年)6月に走ってみる。ところがこの道が1車線狭路が延々と続く、廃道に近い状態のとんでもない険道だった。R42バイパスが完成したのは1965年(昭40年)のことなので、それまでその狭路をトラックが行き来していたとは思えない。r177はR42旧道ではないと結論づけた。

 もう一度地図を見る。するとR42の東側にのr21(県道広川川辺線)〜r176(県道井関御坊線)というルートで迂回路があることに気が付く。このルートは、湯浅御坊道路が開通するまでは頻繁に渋滞していたR42水越峠の迂回路として走っていたルートである。こちらが旧道っぽい感じがする。

 しかし前述のr23もR42に西側の海岸線沿いに進み、R42旧道というようなルートを通っている。和歌山県湯浅町から海岸沿いを進み、由良町衣奈(恵那)から内

陸に入り由良町門前に出、由良町阿戸から切貫峠をトンネルで抜けて日高町萩原に抜けていたのではないか・・・。もしくはr24(県道御坊由良線)のルートでひたすら海岸線を通っていたのではないかと、次々に疑問が生じた。

 最終的にはr23かr176に絞られた。ともに峠に古い隧道が存在しているため。r23が切貫峠の「由良洞隧道」、r176が原坂峠の「鹿ヶ瀬隧道」。この2つの隧道について調べれば、おのずと旧ルートが判明するだろうと思い調べてみる。結論から言うと、どちらもR42の祖先にあたる道であったことが分かった。

水越峠越え道の歴史

 

◆明治時代の熊野街道

1)県道「熊野街道」 由良回り新道

 江戸時代の熊野街道(熊野古道)は広川町河瀬(ごのせ)地区から鹿ヶ瀬峠を越えて日高町原谷地区へ下っていた。 明治維新後の1879年(明治12年)頃、和歌山県内の熊野街道は県道に編入され、和歌山県道「熊野街道」となった。ところが道は旧態依然のままだったとかで、鹿ヶ瀬峠付近では人馬の通行さえ困難な状態になっていた。

 この状態を解消するため、鹿ヶ瀬峠付近で根本的に道を付け替える工事が開始される。この工事は1889年(明治22年)頃に完了し、新たな県道「熊野街道」が由良回りの県道として登場。この年より県道「熊野街道」は由良回りの新道が本線となった。

 由良町史によるとこの経路は、『有田郡殿村から井関、河瀬を経て水越峠を越え畑の北側の山腹を徐々に下り、畑〜中〜門前〜里〜阿戸と由良村の中央部を通り・・・中略・・・「由良洞」隧道を抜け、池田村を通過して萩原村東光寺で旧県道鹿ヶ瀬峠越えの道と合流している』とある。これらの地名は、現在の和歌山県広川町、由良町、日高町の各町に残っているので、おおよそのルートが推定できる。

広川町河瀬地区付近がはっきりしないが、わざわざ新ルートを開拓するとは考えにくいので、鹿ヶ瀬峠越えの旧熊野街道のルート重複していたのではなかろうか。途中で旧ルートから離れて、広川の支流に沿って進み、現在のR42水越TN和歌山市側抗口付近手前を経て水越峠へ。ここからは現在のr177(県道南金屋由良線)のルートを進み、由良町畑からR42、里

よりr23(県道御坊湯浅線)のルートで由良洞隧道を越えて日高町萩原に至るのが、県道「熊野街道」由良回りのルートだったと考えられる。現在のR42に沿って進んでいたということになり、現在のr177も国道ではないが旧ルートの一部だと考えられる。

 しかし由良回り新道は、水越峠と切貫峠という2つの大きな難所があり、この2箇所では長距離にわたる急斜面を有していた。切貫峠には全長138.4mの由良洞隧道を設けているとはいえ、通り抜ける人にとっては厳しい遠回りの道となった。

 このため原坂峠を貫通した鹿ヶ瀬隧道を経由する「津木回り」新道が1910年(明治43年)に開通すると、流れはそちらにシフトしてしまい、わずか20年ほどで県道「熊野街道」としての役目を終えてしまった。

 その後の由良回り新道は廃道に近い状態になったが、東内原村萩原から由良洞隧道を経て由良港に至る区間が、1913年(大正2年)に(仮定)県道「由良港線」として指定され県道として復活。この道は1920年(大正9年)に御坊〜由良間の県道「御坊由良線」(初代)として認定された。さらにこの県道は、戦後の1954年(昭29年)に県道「御坊由良湯浅線」となり、そのまま現在のr23こと県道「御坊湯浅線」に続いている。由良洞隧道は現在も残っており通行可能であるが、交通量はあまりないとのことである。(管理人も今だ走ったことがありません。)

 また水越峠前後の一部の区間は、現在のr177こと県道「南金屋由良線」として1959年(昭34年)5月に認定されている。こちらも現存しているが、ほとんど通る車のない通行困難な県道となっている。

)県道「熊野街道」  津木回り新道

 県道「熊野街道」由良回り新道は、江戸時代の鹿ヶ瀬峠越え「熊野街道」に比べるとあまりにも長い上に、途中難所を2箇所も抱えていて甚だ不便であったことは前に述べた。このため再び路線変更を行うことになった。 日高町史によると、『湯浅から広川沿いに寺仙、落合、中村、原谷、内ノ畑、東光寺と結ぶ道路の改修が始まった』と記述されており、この新しいルートは既存の道路を改修して作られたようだ。このルートであるが、現在も残る地名から推察すると、r21〜r176のルートとなる。

 工事は1906年(明治39年)に開始され、まずは原坂峠を貫通する鹿ヶ瀬隧道が完成。この後、隧道西口〜東光寺間が1908年(明治41年)に。隧道東口〜南広村殿間間が1909

年(明治42年)に完成。翌1910年(明治43年)に津木回りの新道が県道「熊野街道」として

認定された。

 この道は、人力車ならびに馬車用に建設された道路であったため、自動車の出現により19

22年(大正11年)度から改修工事に着手。幅3〜5mの車道用道路に改修された。この道が後に国道42号線となる道である。

 

【写真右】:鹿ヶ瀬隧道前後の道路は「津木回り新道」を改修して車道とした道路。最も色濃く当時の面影を残してい

      るのではなかろうか。現在では新トンネルが開通しているので、写真の地点はr176旧道となっている。

      2004年3月時点では旧道にもヘキサが設置されていた。

3)鹿ヶ瀬隧道

 原坂峠を越える『鹿ヶ瀬隧道』は津木回り新道の一部として1910年(明治43年)までに完成している。その後も県道から国道に昇格してからも現役国道隧道として活躍していた。津木回りのルートが県道に降格となった後も、県道「井関御坊線」のトンネルとして活躍していた。

 しかしトンネル自体は基本的に明治時代のままであった。隧道内部は狭路ですれ違いが困難な状態であり、県道の改良工事にあたってはネックとなった場所であった。老朽化も進んでいたことから新しくバイパストンネルが建設されることになり、『鹿ヶ瀬隧道』より少し標高の低い場所に、近代的な2車線幅の『新鹿ヶ瀬トンネル』が2000年(平12年)3月末に供用開始された。

 『鹿ヶ瀬隧道』は完成以来約90年にして現役を引退する。2004年(平16年)3月時点では、隧道は閉鎖されておらず通行可能だった。抗口は頑丈な煉瓦造りで、いかにも明治時代の隧道という雰囲気がする。内部は素堀だが表面はコーティングされている。内部には照明も設置されており、整備もしっかりとされていた。

 建築学的には明治時代における日本の隧道技術の証拠として価値のあるものなのだろう。このまま廃棄されずに保存されることを祈る次第である。

1.r176旧道を井関方向から進んでくると幅の

  狭いトンネルが現れる。鹿ヶ瀬隧道だ。

2.煉瓦で出来た重厚な雰囲気のある抗口。立

  派な造りである。

3.内部には照明がある。路面も舗装済み。内部

  の壁と天井は岩石むき出しだった。

 

4.KSRUで隧道を越える。こちらは御坊側抗

  口。また雰囲気が違う。

5.造りは同じなのだろう。ご覧の通り内部は1車

  線分ぐらいの幅しかない。

 

◆大正〜昭和時代

1)国道41号線へ昇格

 1919年(大正8年)に(大正)道路法が公布された。翌1920年(大正9年)に和歌山県内でも施行された。資料が少ないのではっきりとしないが、このときに県道「熊野街道」 (津木回り新道)は和歌山県道「和歌山新宮線」になったと思われる。

 大正時代における和歌山県内の国道は、東京から和歌山市までの国道16号線のみであった。しかも大阪より旧熊野街道(小栗街道)沿いに南下してくるので、和歌山県内を通るのは大阪府との府県境から和歌山市までの間だけであった。和歌山県南部を通る国道が登場するのは昭和時代に入るまで待たなくてはならない。

 それまでに誘致や昇格の陳情があったのかどうかは分からないが、県道「和歌山新宮線」は1945年(昭20年)1月に国道41号線(松坂和歌山線)に昇格。ここに和歌山県内2番目の国道が登場した。”国道”としてR42直接の先祖にあたる道である。

 ところが県道「和歌山新宮線」が国道41号線に昇格したからと言ってすぐに整備されることはなかった。戦争末期であることからほとんど改修されることなく終戦を迎える。終戦後も改修工事は行われずそのまま放置されていたそうで、国道に昇格してからも昔の県道とほとんど変わることのない道路状況が続いた。

 終戦6年後の1951年(昭26年)になって、和歌山県は『国道41号線改修5カ年計画』を発表。ようやく道路の改修に乗り出した。

2)国道170号線の誕生

 1952年(昭27年)12月、道路法が改正されて(昭和)道路法が施行され、全国の主要道路(主に大正国道)が「一級国道」として指定された。和歌山県内の国道としては、(大正)国道16号線が一級国道26号線(現在のR26)に指定されたが、(大正)国道41号線は選考からもれ、翌1953年(昭28年)5月に施行された「二級国道」の一つである国道170号線(和歌山県和歌山市〜三重県松阪市)として指定された。現在のR170とは明らかに違う道で、この(初代)国道170号線こそが現在のR42の前身である。

 さて国道170号線となったものの、道路状況はなんら変化がなかった。1953年(昭28年)7月には水害が発生し、国道指定直後の170号線は各地で寸断されてしまった。沿線各自治体では復旧に取り組みながらも、「一級国道」昇格への運動を起こすことになる。

 当時の国道は急増する自動車の交通量に道の改修が追いつかない状態で、途切れ途切れに舗装道路区間があるという状態だった。国道沿道では天気が良ければ黄塵が舞って、民家の雨戸を明けることが出来ず洗濯物すら干せないという状態で、また雨が降れば屋根まで黄色く染まってしまう状況だったとか。別名『流産道路』とか『陸の玄界灘』と呼ばれる悪名高い”酷道”であったという。

)国道42号線の誕生

 (大正)国道41号線が国道170号線として指定されたものの、道の状態は相変わらずであった。和歌山県や沿道各自治体では国道170号線の「一級国道」への昇格運動を起こしていたが、これが効を奏したのかどうかは分からないが、1958年(昭33年)9月に国道170号線 を「一級国道42号線」に昇格する政令が公布された。

 そして翌1959年(昭34年)4月1日、一級国道42号線(和歌山県和歌山市〜三重県津市)が誕生した。今に至るR42の誕生である。 (等級は1965年(昭40年)に廃止される。)

◆国道42号線

1)昇格直後の国道42号線

 和歌山県広川町と日高町間のR42は、現在のR42のルートではなく、かつての熊野街道(津木回り新道)のルートを経ていた。鹿ヶ瀬隧道を越えるルートで、現在のr21〜r176のルートがこれに相当する。しかしながら道の状態は「一級国道」とは名ばかりの『酷道』のままであった。「一級国道」に昇格後、近畿地方建設局によって道路の拡張とルート変更などの工事が開始された。

2)バイパスルートの選定

 「一級国道」昇格後のR42広川町・日高町間の改修については、従来の津木回り(原坂峠越え)の道路を改修するか別ルートで新道を建設するかで地元で大きな議論となった。

 国道170号線時代の1955年(昭30年)頃から、和歌山県由良町では国道誘致運動が始まる。これは天然の良港である由良港へのアクセス道路の確保や町内産業の興隆という目的があった。

 津木回りの国道を保有する和歌山県日高町では当然のごと由良回り案に反対した。バイパス道路建設により耕地が減少することや、熊野街道(津木回り新道)建設に際して水田を犠牲にして道を通したのにまた付け替えられると、経済的・産業的に打撃を被ると言うのが理由であった。

 経緯は資料がないので不明であるが、結局のところは由良回りで建設されることに決まり、1961年(昭36年)8月中旬より新道の測量と用地買収が開始され、これと平行して津木回りの国道の改修工事も行われた。

3)R42由良バイパスの完成

 1963年(昭38年)1月、水越〜東光寺間の16kmの起工式が行われ、用地買収済みの区間より建設工事が開始された。

 同年3〜4月には水越・里・由良の3トンネルの工事も開始された。このうち水越トンネルは軟弱な岩盤に阻まれて難工事となったが、1964年(昭39年)4月には貫通。その他のトンネルや道路も随時完成し、1965年(昭40年)1月、由良回りの新道(R42由良バイパス)が完成。現在のR42が姿を現したのである。

 ちなみにこの後も改良工事は続けられ、和歌山市〜田辺市間は1965年(昭40年)3月までに全面舗装、県内区間も1969年(昭44年)までに全面舗装が完了している。

【写真右】:現R42の水越トンネル(和歌山側抗口)。

国道42号線水越峠旧道

 

 ようやくR42水越峠旧道について書くことが出来る。

 津木回りのルートに落ち着くまでの経緯を考えると、r177(県道南金屋由良線)の一部とr23(県道御坊湯浅線)の一部も旧道と言えないこともない。 ただ両道とも県道「熊野街道(由良回り)」時代の道路の後身であるが、国道となったことはない。

 R42旧道という条件からすれば、現在の水越峠を越えるR42由良バイパスが完成するまで国道42号線だった津木回りのルートがR42水越峠旧道ということになる。今のr21〜r176のルートがそれに相当する。r176(県道井関御坊線)がR42水越峠旧道であると言えるだろう。

<<参考資料>>由良町史/日高町史

【国道42号線 水越峠旧道終わり】

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