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天王峠旧道

●天王峠旧道

 大阪府豊能郡能勢町天王地区にある天王峠にある旧道。現在のR173は 天王トンネル・天王第2トンネルという2つのトンネルと福住大橋という橋脚で、S字ルートを描いて一気に通過しているが、旧道は山一つ向こうをウネウネと曲がりくねって進み、一度交差した後は現道のすぐ下を通っている。

 今では廃道寸前の峠道であるが、かつては摂津と丹波を結ぶ重要な街道であり、江戸時代から難所の峠でもあった。

 

>>国道173号線旧道【天王峠旧道

◆天王峠

 大阪府豊能郡能勢町天王地区の北端に位置する峠で、江戸時代より丹州街道(丹波街道)の難所として知られた峠である。

兵庫県篠山市との境(大阪府と兵庫県の府県境)にある峠と思うかも知れないが厳密には府県境の峠ではない。境は峠を越えて北に向かって少し下った所にある。

 天王峠は江戸時代中期に刊行された『摂津名所図会』(寛政10年(1798年)刊)では「脚木摺(すねこすり)峠」と記されていた。同書の記述は『脚木摺(すねこすり)峠:天王村の後山なり。丹州籾井村(福住)に出ずる。大阪天満橋より此の峠まで一一里二七長二間、此所摂津の界なり。一里が間牛馬通せす、特に坂路屈曲して石荒く木根高くして足の踏途を患ふ。これによりて脚木摺峠という』となっていたが、屈曲甚だしい峠であることから「七曲り」「七廻り」と呼ばれていた。その名の通り、かなり曲がりくねった峠道であったようだ。

 それを物語るように、現在の旧道南側分岐点近くに建っている『丹州街道古民謡の碑』碑には・・・

 天王大坂七廻り

 身過ぎなりやこそ一夜おき

 越すは丹波のお蔵米

 九里に九つ峠を越えて

 いこか池田の大和屋へ

・・・という詞が彫られている。(碑自体は、1962年(昭37年)4月末に地元の方が自費にて建立したもの)

 古民謡自体は、江戸時代中期の明和〜安永時代(1764〜1781年)頃に謡われ始めたそうだ。生活のためとはいえ、丹波から天王七廻りを初め、九つの峠を越えて行かねばならない苦労を謡っている。九里に九つある峠の中で最初に現れるのが天王峠で、しかも九つの峠の中では最も険しい峠であった のだ。

 現在の天王峠という峠名がいつ頃から言われ出したのかは不明だが、出所はこの「天王大坂七曲がり」から来ているのだろう。

>>天王峠にまつわる話:摂丹国境山論

 16世紀末ごろから100年にも及ぶ(摂津国と丹波国の)国境山論があった峠であった。17世紀末の元禄12年(1699年)、丹波国側の福住村の訴えで京都奉行所にて国境についての論争が行われることになった。この論争(山論)が容易に決着しないと見た天王村庄屋は、京の扇屋に扇子1000本を注文。

 しかし庄屋は扇子が出来上がってもわざと引き取りに行かなかった。扇屋はお盆を過ぎても引き取りに来ないので始末に困り、ついに原価割りの安値で各方面にはかせた。この扇子の面には、糸をつむぐおばあさんが傍らの孫に話かけている図を描き、『わしが若いときや天王に通うた。天王大坂七曲り』の歌が記してあったという。

 やがて奉行所で論争が始まる。天王村側は「脚木摺(すねこすり)峠は天王村領域である」ことを主張。 当然福住村側も「峠は福住村の領域である」ことを主張した。論争は激論となったが、先の扇子が京界隈に広がっていたこともあって (峠は天王村の領域だろうという認識が広まったのか?)、大論争は天王村が勝訴。この結果、峠は天王村の所領となり、現在の大阪府・兵庫県の府県境が摂丹の国境と定められたという。峠の北寄りに府県境があるのはこのためだそうだ。

参考資料>>能勢町史

国道173号線天王峠旧道

概略/R173天王峠旧道 (南区間)/R173天王峠旧道(北区間)

○国道173号線天王峠旧道

 【概略】

 江戸時代の丹州街道は摂津・丹波を結ぶ重要道であったことから明治時代に入ると改修工事が行われた。改修工事は南(池田)より始められ、天王峠付近も1889〜92年(明治22〜25年)にかけて道路改修工事が行われた。この時の工事では天王峠の切り通しが行われ、1889年(明治22年)に峠は四間(約7m)ほど切り下げられている。ところがその後は改修工事は行わないままとなり、道路は荒廃の一途を辿り通行困難な状態になり、明治時代になっても難路のままであった。

 それを示す出来事があった。1912年(明治45年)1月29日、大阪第四師団の砲兵演習が行われた際、師団は移動のため福住側より天王峠を通過することになった。最初の急カーブである「第一番之曲度」にさしかかったときであった。砲台2台を続いて引き上げようとした時、前の砲車が悪路のために誤って後戻りして後続の砲車に接触。2台ともバランスを崩して、渓谷に転落しかけた。兵が腕限り辛くも支えていたが、一人の兵は砲車に挟まれて手指1本を切断するという事故が起こった。

 この事故の後、砲兵隊長は『余数箇所ニ演習スルモ県道トシテ斯カル不行届ノ難路ヲ見ズ。請フ直チニ地方庁官ニ願出テ復旧修繕有之度』という命令(下命)があったこと が、地元行政任者(天王村惣代)から府会議員に出された懇願状に記されていた。ただこの懇願状により天王峠の峠道が改修されたのかどうかは分からないそうだ。

 明治時代の府道丹州街道の道路はとても車が通ることが出来るような道ではなく、人もしくは牛馬で精一杯という状態だった。今も一部分残っているそうだ。ゆえに大正時代以後、車が通ることが出来る新道が建設されているはずである。それが現在の天王峠旧道であろう。断言ができないのは、大正時代以後の天王峠についての資料がほとんどないため、いつ頃に新道が建設されたのかは不明であるからだ。個人的には、丹州街道が府道福住池田線に指定されて以後の大正後期〜昭和初期に車道として新道が建設されたのではないかと推測している。

 以後の動きは他区間とほとんど同じ。戦後に府道池田篠山線となり、1963年(昭38年)4月1日に国道173号線に昇格。昇格から8年後の1971年(昭46年)度より、国道173号線の抜本的な改良工事が始まる。 天王峠付近も全く別のルートと通ることになり工事が開始された。1976年(昭51年)に天王TNが貫通、1988年(昭和63年)に 天王峠のバイパスが全通。旧道とは山一つ挟んだ北西

側を通り抜けるようになった。

 曲がりくねる『七曲り』の難所の面影があった天王峠旧道であるが、バイパス開通後は通る車もほとんどなくなり、ひっそりと余生を過ごすことになる。道路の整備はほとんど行われないまま現在に至っている。

参考資料>>能勢町史

○国道173号線旧道

  天王峠旧道(南区間)

【レポートは大阪府能勢町天王→兵庫県篠山市福住方向(南→北方向)です。】

■R173天王峠旧道南側分岐点

 大阪府能勢町天王地区の町中を抜ける。r601(府道杉生能勢線)分岐点を越え、時々速度取り締まりが行われる田畑の中の直線区間を過ぎると天王第一トンネルに着く。この付近が天王峠らしい。『七曲がり』の難所という話だが、池田側(南側)から来ると緩やかな坂道が続くだけで難所という雰囲気はしない。

 池田市方面から見ると、この天王トンネル南側抗口直前で右側に分岐する狭路が見て取れる。この道がR173天王峠旧道。TN直前が旧道南側分岐点となる。TN前の北行き車線(池田→綾部方向)側路肩には広い待避帯があるので、そこに止まって分岐点を見てみる。

 分岐点には『阪鶴国道開通記念碑』という石碑が建てられている。その横には以前は巨大なパイロンと簡単な柵が設置されていたのだが、2005年(平17年)8月末に訪れてみたところ巨大パイロンは撤去されていた。一応通行止めの柵が設けられていたが、道路脇に動かされており進入可能状態となっていた。

 以前は『通行止』の看板があったのだがそれも見あたらない。2002年(平14年)夏頃の大雨で路肩が崩れて通行不可能となったと聞いていたが、どうやら走行可能な状態のようだ。近くで農作業をしておられた方に話を伺うと、道は通行可能だが途中で路肩が崩れていると言う。バイク(KSRU)なら通り抜けることが出来るだろうとのこと。

 旧道沿いの作業のため開放されているのか、本格的な柵を設置するために撤去されたところなのか分からないが、ここから先は『自己責任』の範疇での走行となる。何か起こっても文句は言えないのだ。それを肝に銘じて旧道に入る。

1.天王TN南口前が旧道南側分岐点。以前は

  分岐付近にパイロンが立っていた。

2.分岐点を少し走ったところに移動したが、道

  路脇に移動して進入可能状態だった。

3.トンネル前に立つ道路開通記念碑。ここでいう

  道は現在のR173のことだそうだ。

■旧道南側分岐点〜路肩崩壊現場

 旧道分岐点から狭い2車線幅の旧道に入る。分岐点からすぐの所、道の右側路肩には『丹州街道古民謡の碑』が建っている。碑を過ぎると緩やかな坂道となって山間を進むようになる。昔は狭い2車線幅ぐらいあったであろう旧道も、路肩より草木が浸食してきており、走行可能な部分は道中央の1車線分ほどしかない。2000年(平12年)5月に走ったときはもう少し広かったような気がするが、5年ほどの間で一気に浸食が進んでしまったようだ。

 路面は一面コケが生えている場所もあれば、轍の場所以外は落ち葉に覆われている場所もある。アスファルト舗装も亀裂が入ったり剥がれたりしており、落石もあちこちに見受けられる。路肩決壊以後はほとんど整備されていないようだ。そんな荒れた路面をしばらく進み、急な右カーブを過ぎると鬱蒼とした杉林の中に入る。路面は轍の部分以外は落ち葉・枯れ枝とコケに覆われている。

 やがて路肩崩壊現場に到着する。旧道分岐点から400mほど進んだところである。現場は道路下の斜面が土砂崩れにより土砂が流出し、路肩から車線半分までが見事に崩壊していた。現場には申し訳程度に土嚢とパイロンが設置されているだけで、復旧工事する気配すら感じられない。完全に放置されている。残っている部分の路面にも亀裂が生じており、以後いつ崩れ去ってもおかしくない状態である。

4.05年8月に撮影。路肩は草木に浸食され、

  走行可能な道幅は1車線ぐらいになってし

  まっている。

5.同じ場所を00年5月に撮影した写真。道幅

  は広い。5年間の歳月は道を大きく変えて

  しまった。

6.路肩からは草木が浸食してきており、1車線狭

  路旧道となっている。

  (福住→天王方向を撮影)

 

7.路面は落ち葉に覆われ、コケが生えている。

  状態は悪化の一途をたどっている。

8.崩壊現場。道の半分が消えていた。

  (福住→天王方向を撮影)

 

■路肩崩壊現場〜R173現道旧道中間交差点

 崩壊現場を過ぎると倒木が目立つようになる。2004年(平16年)の台風23号などの影響だろうか?山の斜面から多くの木が倒れてきたようだ。路面を塞いでいた倒木は全て撤去されているので通行は可能であるが、今だに倒れた木があちこちに見受けられる所を見ると、結構大規模だったのかも知れない。その先には山の斜面から転がり落ちてきた岩が転がっていた。見ると新しい岩なので最近転がり落ちてきたの だろう。

 崩壊現場から300mほど進むと杉林の中を抜け、山の斜面に出て周囲は明るくなる。路面の荒れはマシになるが、路肩から浸食してきている草木によって見通しが悪くなって いる。元々狭い2車線道が1車線道になってしまっている。やがて急勾配の坂道となり、見通しの悪い急カーブがいくつも連続するようになる。坂の途中から見ると、いくつもの道が並行するように重なっていた。いわゆる『葛折り』区間だ。ここが難所と言われた『天王七曲がり』である。数えてみたが、急カーブは7カ所以上あったように思える。

 再び杉林の中に入り、コケと落ち葉に覆われた急坂狭路を進んで行く。急カーブをいくつも曲がって行くが、カーブの度に目にする不法投棄の粗大ゴミには正直うんざりする。

 杉林の中を抜けて最後の急カーブを曲がると、現R173の車道が見えてきた。約600mの『葛折り』区間を過ぎて、南側旧道分岐点から約1.5kmで現R173との交差点に到着した。

9.進むつれて道はこのような状態になる。

  倒木が多いのが目立つ。

10.大きな岩が斜面から転げ落ちてきている。

  撤去する様子もない。

11.狭い2車線道で葛折りに入る。

  (福住→天王方向を撮影)

 

12.山間にはいるとこういう状態になる。

  もとは狭い2車線幅はあったはずだ。

13.04年2月に撮影。草木が枯れているので、

  現R173の道が見える。中間交差点近くだ。

 

■R173現道・R173天王峠旧道中間交差点

 R173天王峠旧道は現R173と交差して いるので、現道を横断する必要がある。現R173が旧道を突っ切るように作られたのでこうなった。速度を出して走る車が来るので左右の確認をしてから横断する必要がある。

 現R173から見た旧道南区間入口は、作業道か村道の分岐点のような感じである。綾部市方面から池田市方面に南下した場合だと、登坂車線のある上り坂の終わり付近が交差点となる。目印は池田市方向(南方向)に向かって左側にある電話ボックス。そのすぐ先が旧道交差点となる。

 旧道入口横に巨大パイロンが置かれているのですぐに分かるだろう。2005年8月時点で、こちら側もゲートなどは設置されていない。

 ところで中間交差点の北区間入口側には2車線のアスファルト舗装の道路が残っている。現道と旧道、両方から入ることは出来ない中途半端な位置にある。旧道の一部なのかも知れないが、おそらく現旧道から現道への暫定的な連絡道路として使用されていた道なのだろう。

14.旧道北区間の入口。巨大パイロンが目印。

  00年5月撮影だが、ほどんど変化がない。

15.05年8月に撮影。パイロンの色が褪せてしま

  っている。旧道は現道を横切る。

16.北区間入口南にある謎の道路。旧道からの

  連絡道路跡と思われる。04年2月撮影。

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