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国道169号線旧道(8)

池原ダム旧道

下北山村旧道

高尾谷バイパス旧道

◆国道169号線池原ダム旧道

■池原ダム

 昭和26年(1951年)に国土総合開発法に基づき、吉野熊野総合開発事業が動き出した。この事業の中には熊野川電源開発事業が含まれ、この中に奈良県吉野郡下北山村内に大規模な発電ダムの建設が盛り込まれた。ダム建設までの経緯は省略するが、最終的に下北山村内には坂本ダム・池原ダム、和歌山県東牟婁郡北山村に七色ダムと小森ダムの4つのダムを建設することになった。

 まずは坂本ダムが昭和34年(1959年)に着工、昭和36年(1961年)末に完成。次に池原ダムが昭和37年(1962年)3月に着工し、昭和39年(1964年)4月に完成。続いて七色ダムが昭和38年(1963年)8月に着工となり、昭和40年(1965年)8月に完成している。最後に小森ダムの建設が昭和38年(1963年)10月から開始され、小森ダムは昭和40年(1965年)8月に完成。これらの4つのダムの完成により、北山川水系の電源開発事業は完了している。

■池原ダムとR169

 この中でR169に最も関係してくるのは池原ダムである。池原ダムの完成により、吉野郡下北山村池原から吉野郡上北山村河合地区までの広大な地域が水没することになった。

 北山川に沿って進んでいたR169も約15kmが水没することになった。このうち上北山村内では約12km、下北山村内では約3kmの道が水没することになったため、付け替え道路が建設されることになる。ダム建設によって水没する道路は東熊野街道の後身となる、明治40年(1907年)〜明治43年(1910年)にかけて県道東熊野街道として大改修された道路で、蛇行する北山川の右岸をウネウネと進んでいた。

 「上北山村の地理」(p.108)によると、付け替え道路は『河合の少し下流失尾付近から旧道より分かれ、わずかずつ河底より離れ、比高を増しつつ南進する。道路は海抜三三五米前後をたどり、その勾配は少なく、カーブも比較的ゆるく、所々に支流に橋を架し、支脈にはトンネルを掘っている。』 とある。 この道が今のR169ということになる。

 新たに建設された橋とトンネルは、上北山村河合から南に向かって、オソゴエトンネル(L=164.5m)−白川橋(L=152.8m)−白川トンネル(L=84m)−戸賀トンネル(L=158m)−深瀬トンネル(L=225m)−前鬼橋(L=230m)−麦谷橋(L=20m)−芦原橋(30.7m)−トリワ谷橋(L=126.1m)−音枝トンネル(106.2m)となっており、前鬼橋以南が吉野郡下北山村内に建設された付け替え道路となる。

 付け替え道路の工事は昭和36年(1961年)11月に着工となり、昭和39年(19

64年)6月1日に竣工。音枝(おとし)トンネルだけは遅れて昭和43年(1968年)3月に完成している。

 川沿いの旧道がいつ頃水没したのかは資料が少ないのではっきりしない。「上北

山村の地理」(p.198)には、昭和40年(1965年)8月撮影の池原ダム湖と移転した新集落の写真が掲載されているので、それ以前となる。旧版掲載時にいただいたメールによれば、ダム完成後の昭和39年(1964年)5月から一部で水が貯められたそうなので、おそらくその時点で旧道は通行止めとなり、やがて水没したと推測される。(情報提供:Rockyさん)

 平成21年(2009年)9月時点で、池原ダムが完成してから45年も経過している。半世紀近い歳月が経過したため、さすがにダム湖底には旧道の姿はなく、わずかに橋脚や側壁の一部が残るぐらいとなっている。

参考資料・文章引用元>>上北山村の地理(昭和39年刊)/東の川(昭和37年刊)/下北山村史(昭和48年刊)

■国道169号線池原ダム旧道【池原ダム旧道】

国道169号線音枝峠旧道【2004年レポート】

国道169号線音枝峠旧道【平成21年(2009年)レポート】

>>Update H22(2010).03.23

○国道169号線池原ダム旧道

■吉野郡上北山村失尾付近

 池原ダム湖湖底には、北山川右岸に沿って進んでいた旧道の姿はない。渇水期にダム湖の水位が下がり、湖底が一部見えてきても旧道の痕跡がないのは、旧道が半世紀近く前に沈んだうえ、その間に積もった土砂などで湖底に埋もれてしまったのだろう。

 池原ダム湖旧道の北側(吉野寄り)の旧道分岐点がどこなのかははっきりしない。「上北山村の地理」によると、旧道は河合地区の少し南にある失尾付近から分岐すると記述されている。R169現道のオソゴエトンネルから750mほど北側(吉野寄り)の一帯が失尾地区となる。以前いただいたメールによれば、現国道の左側、北山川川岸にコンクリート工場がある付近で分岐していたとの話なのだが、工場の作業道があるだけで旧道らしき道は見あたらない。(情報提供:Rockyさん)

1.河合地区の南にあるコンクリート工場。この付

  近から旧道が分岐していたとのこと。

2.現道の左側に工場の作業道路がある。旧道

  の後身ではなさそうだ。

3.この先のカーブの付近で分岐していたのではな

  かろうか?

■白川発電所付近

 失尾地区から分岐した旧道は、北山川右岸(下流に向かって右側、北山川の場合だと西側の岸)を南に下っていたそうだ。失尾地区から北山川は蛇行するため、R169現道は川から離れてオソゴエトンネルで山を越える。トンネルを出ると関西電力白川発電所が現れる。白川発電所は水力発電所で、北山川の支流で山の西側を流れる白川又川から取水して北山川(池原ダム湖)に放水している。操業開始は大正10年(1921年)10月という発電所である。

 R169現道は白川発電所の前を通り過ぎるのだが、発電所の左側(ダム湖側)には半ば土に埋もれた旧発電所の建物と、構造物が残っている。この付近も建物が隠れるまで水が貯まることがあるため、堆積した土砂で旧道は埋もれてしまったようで、

この付近の旧道は確認出来ない状態になっている。

 

 

 発電所から南、白川大橋までの間は、渇水期になるとすぐに水位が減って川筋が現れる。旧道の痕跡も現れやすいようだ。

発電所の少し先でR169現道の側壁を改修した所があるのだが、この付近に旧道らしき痕跡が残っている。地肌が赤茶けて草木が生えていないところを見ると、満水時にはこの付近まで水位が上昇するのだろう。

 さらにその先には、ダム湖底(河原?)に下るダートの作業道がある。鎖で進入禁止となっているが、ここから見ると右岸に旧道らしき痕跡が見られる。 

4.最近改修された側壁の左下に、旧道らしき道

  があった。それとも作業道か?

5.川底というか湖底に下る作業道。下りた付近

  に道があった。

6.下りた付近から右側に道があり、その先に側壁

  らしき構造物がある。旧道の痕跡か?

■白川橋付近

 池原ダム旧道の確実な痕跡があるのが白川大橋近くの湖底である。R169現道の白川橋は白川又川に架けられているが、その白川橋から湖底を見ると橋脚が確認出来る。白川又川に架かっていた旧道の白川橋(宮前橋)の橋脚である。「上北山村の地理」(p.107)に(新)白川橋(現道)と(旧)白川橋の写真が載っているのだが、それから判断すると、残っている橋脚は(旧)白川橋の基礎部分と 川の中にあった橋脚のようである。その前後に旧道が通っていたことになるが、周囲は泥や土砂が堆積しており、わずかに集落の跡がある以外は何も残っていない。

 

 

 上写真は平成13年(2001年)5月に撮影したもの。このときは渇水で水位がかなり下がっていたため確認できた。この付近はすぐに水位があがるようで、この後はすぐに水に没したように記憶している。平成16年(2004年)4月の渇水期にも撮影したが、土砂が堆積したため 、橋脚は上写真の右側から2番目のものしか確認できていない。

 水位や渇水時の水の流れ方によって土砂が洗い流されるため、確認出来る時と出来ない時があるようだ。平16年以後は、どうも折り合いが悪いらしく、水位が上昇した時に訪れているために橋脚は確認できていない。

 

 

 白川橋の先には旧道の側壁らしき構造物が残っていた。縮小しているので分かりずらいが、上の写真に見える石積みの側壁が人工物であることが分かる。この上の土砂や石が積もっている箇所が車道だったと思うのだが、この側壁の下(水に沈んでいる)に車道があったのも知れない。

 以上が、@管理人が確認した音枝峠旧道以外の池原ダム旧道の痕跡である。

<<撮影年月の記載が無い写真はすべて2004年3月撮影>>

○国道169号線音枝峠旧道

  2004年レポート

■音枝峠連絡道路跡

 吉野郡下北山村に入り前鬼橋からR169を南に向かって走って行くと、音枝トンネル北口の少し手前の付近に、現道から分かれて山頂に向かっている道らしきものがあるのが分かる。

 

 

 上写真の真ん中のバスが走っているガードレールのある道がR169現道で、のり面に設置された落石防護ネットの上を斜めに通る坂道らしきものが見える。 写真左上の鞍部の辺りが音枝峠と言うことになる。

 近づくと現道の上に道が通っていることが分かる。(写真左) 現道との合流付近はフェンスが設置されていて進入不可能となっており、廃道となってしまっている。 (写真右)

 「下北山村史」によると、北山川右岸を通っていたR169池原ダム旧道は、川沿いではなく音枝峠を越えて下北山村池原へと下っていた。峠前後は急勾配・急カーブの道が続いていたとか。

 昭和39年(1964年)1月までに、音枝トンネルを除く池原ダム建設による付け替え道路は完成していた。音枝トンネルが開通したのは昭和43年(1968年)3月のことで、それまでは音枝峠を越えていたことになる。現在残るこの廃道は 、音枝トンネル開通まで使用されていた、旧道との暫定的な連絡道路跡であろう。

■連絡道路跡分岐付近

 R169現道と音枝峠旧道とを結ぶ連絡道路跡の北側分岐点であるが、前述の通りフェンスが設置されている。その部分から見てみると、やや急勾配の坂道が峠に向かって続いている。この道がダム付け替え道路(現道)と明治道の後身である音枝峠旧道との連絡道路となる道である 。しかしすでに廃道となり、道路は荒れ放題の状態となってしまい、大小様々な大きさの石が転がり草木が生えていた。

 音枝トンネル開通までの暫定的な道路であったので、フェンスの地点で現道から川底に下る旧道の姿は見あたらない。あるのは桜が植えられた広場のみである。「下北山村史」に記載されている地図では、音枝峠を越えた旧道はウネウネと急カーブと急坂を下って右岸に出るよう記されている。付け替え道路から北山川(今は湖底)に下る旧道の姿はないので、別のルートを通っていると思われる。

1.分岐点付近にはフェンスが設置されていた。

  右に坂道が見える。

2.坂道を少し上って現道を見る。廃道となってお

  り、大きな石も転がっていた。

3.峠方向を見てみる。1.5車線幅ぐらいの坂道

  が続いていた。

4.川底への道がない。道路を挟んだ向かい側

  は桜が植えられた広場となっていた。

5.広場から坂道を見る。広場と坂道との高さが

  の位置があわない。

6.この先、下り坂のようなのがあった。 おそらく崖

  だろう。川沿いに下る道は別の場所のようだ。

■音枝峠旧道南側

 音枝峠南側、旧道の南側はすぐに判明する。音枝トンネルの南側でR169現道の途中から分岐して、平成の森キャンプ場に向かう道路がR169音枝峠旧道の南側の区間となる。

 道は急カーブと見通しの悪い小刻みなカーブを有する1.5車線狭路坂道。急勾配の坂道を上ると広場に出る。道なりに右に向かうとキャンプ場に入るが、この広場から直進するダート道がある。この道が旧道なのか、単なる作業道なのかは不明である。

 そのままダート道を進めば分かったかも知れないが、平成16年(2004年)の調査時は時間が遅かったのとZRX1100で来ていたので、ダート道に突入する気がなかったため、調査せずに撤収してしまったので分からないままとなっている。m(_ _)m いずれ機会があれば調査する予定です。

7.音枝峠旧道南側分岐点。キャンプ場への道路

  が旧道。

8.急カーブと急坂の1.5車線狭路坂道。

  (峠→R169方向を撮影)

9.この付近はよくある山中の狭路っぽい。現役時

  代はダートだったのだろうか。

10.峠からR169方向を見る。山中の狭路道で

  見通しの悪い道である。

11.坂道を上りきると広場にでる。右に進むとキャ

  ンプ場。ユンボの向こうに道が続く。

12.直進するダート道がある。旧道なのかキャンプ

  場整備の際に作られた道かは不明。  

 

13.北側から広場を見る。ユンボの右側にも道

  らしきなのがあった。

14.草木に覆われて分かりずらいが、坂道らしい

 のが下っていた。単なる斜面かも知れない。

 

<<写真はすべて2004年3月撮影>>

◆2004年レポート終わり

○国道169号線音枝峠旧道

  平成21年(2009年)レポート

 平成16年(2004年)以降、何度もR169経由で下北山村には訪れているのだが、音枝峠旧道を探索する機会がないまま時だけが過ぎてしまった。いい加減に音枝峠旧道 南側区間を探さねばならないと思い立ち、平成21年(2009年)9月にようやく現地を訪れることにした。

 音枝トンネルの少し北側にトリワ谷橋があるのだが、ここから南東方向の山腹に道があることに気付いていた。他に道路が見られないので、この道が南側区間の一部だろうと推測していた。この道はキャンプ場へ向かう道の途中から分岐しているだろうと見当を付け、ダート路が怪しいと思い、今回はKSRUでダート路を走行してみた。

【レポートは 旧道南側分岐点→キャンプ場方向(南→北方向)です。】

■音枝峠旧道南側【分岐点〜キャンプ場前】

 音枝峠南側の旧道は、吉野郡下北山村の『平成の森キャンプ場』に向かう道である。上池原のR425交差点〜音枝トンネル南口の間から分岐し、急坂と急カーブでウネウネと曲がりながら音枝峠に向かう。以前は1.5車線幅の狭路であったが、キャンプ場とバス釣りのボート乗り場へのアクセス道路として整備され たようで、拡幅されてセンターラインのない2車線道に生まれ変わっていた。平成16年(2004年)に訪れた時の狭路の面影は無くなっていた。

 ヘアピンカーブのある1.5〜狭い2車線幅の坂道を進み、分岐点から800mほど進むと広場に到着する。ここの付近が音枝峠なのだろう。ここで舗装路は右カーブを描いて池原ダム方向に進んで行くが、直進方向にはダート路があって山中へと消えている。

 舗装路はキャンプ場へのアクセス道路として整備され、またバス釣り客の車の駐車場などとして整備されていた。一方のダート路であるが、平坦な1車線狭路のまま山中へと進んで行く。砂利の多いダート路だが路面状態は良好だ。ウネウネと進む道を進むと、やがて下り坂となる。見通しの悪いカーブを曲がると『平成の森キャンプ場』前に出て、さきほどの舗装路と合流した。距離にして約400mのダート路であった。

1.音枝峠旧道南側分岐点。キャンプ場へ向か

  う道路の分岐点である。

2.道は拡幅整備されてセンターラインのない狭

  い2車線道となっている。

3.かつては狭路だったのが、バス釣り客の車など

  が走るために拡幅したのだろうか?

4.坂を上がるとダート路分岐点に着く。舗装路

  は右に向かうが、ダート路は直進する。

5.ダート路。フラットな砂利ダート路。旧道なの

  かどうかは不明。

6.やがて下り坂となる。地形図から判断すると

  旧道ではなさそうな気がする。

<<写真はすべて平成21年(2009年)9月撮影>>

■音枝峠旧道南側【キャンプ場前〜ダム湖】

 ダート路は急坂となってダム湖湖畔に下ると思っていたのだが、あっけなく舗装路と合流して終わってしまった。ところがキャンプ場前からダム湖に下りて行く狭路が分岐していた。

 道は1.5車線幅の舗装路。急勾配の坂道で急カーブを描きながら下って行くと、300mほどで池原ダム湖湖畔に出た。舗装路が終わる付近に休憩所(?)があり、その先からはコンクリ舗装路となっていた。コンクリ舗装路はかなり急な角度の坂道となっており、葛折りのカーブを曲がるとその先はスリップとなって湖へと消えていた。コンクリ舗装路となってからは、ボート搬入のためのスリップとして整備されたのだろう。満水時にはコンクリ舗装路の急カーブ付近まで水位が上昇するのだろう。

 さてこの道路だが、もともとはダム湖に流れ込んだりした流木を回収するための場所や、ダム湖へのボートを運び込むための作業路として使用されていたのだろう。それが池原ダム湖がバス釣りのメッカとなってしまったために、今はバス釣りボートの搬入路として使用されるようになったようだ。

 音枝峠からわざわざ新しい道を開設したとは思えないので、おそらくは音枝峠から北山川に下っていた旧道の道筋を利用して整備された道だと推測している。昔に発行された地形図ならびに撮影された航空撮影写真から判断しても、この道筋が音枝峠旧道北側区間の一部である可能性は高いと思われる。

7.キャンプ場前から狭路が下って行く。左上の

  道はダート路。

8.旧道っぽい感じのする狭路坂道。音枝峠北

  側の旧道だろうか?

9.やがて池原ダム湖が見えてくる。下りきるとコ

  ンクリ道となる。

10.写真の左に休憩所があった。そこからキャン

  プ場方向を見る。

11.やがて道は急勾配のスリップとなってダム

  湖に消えていった。先はボート乗り場。

12.コンクリ道の途中にて。対岸にR169現道の

  トリワ谷橋が見える。

<<写真はすべて平成21年(2009年)9月撮影>>

◆平成21年(2009年)レポート終わり

<<MEMO>>

■概況・交通量など

 池原ダム旧道は、音枝峠旧道以外はすべてダム湖に沈んでしまい、現在では少しの痕跡しか見つけることしかできません。

 水没したのが昭和39年(1964年)のことですから、平成21年(2009年)時点で45年も前のこと。半世紀近い間の土砂が堆積したのですから、道路を始め集落の痕跡すら無くなるのは当然といえます。

 唯一旧道だと断定できるのは(旧)白川橋の橋脚のみですが、ダム湖の水位と土砂の堆積状態によって見える時と見えない時があるので、その時次第ということになります。大滝ダム旧道も同じような経緯を経て消えて行くのでしょう。

 音枝峠旧道は明治道の後身です。本文中にも書きましたが、R169現道からトリワ谷に下る道筋が分からないので、残っているのは現道付近のみ。峠南側はキャンプ場へのアクセス道路として整備されて余生を送っているので、明治道の面影を残すのは現道の分岐点付近ぐらいとなります。

 音枝峠旧道北側区間は、去に発行された地形図と航空撮影写真から判断して、キャンプ場前からダム湖に下る狭路だと思われます。確証がないので断定できませんが、わざわざ新たにダム湖に下る道を開設するとは思えないので、旧道を改良整備したのではないかと推測しています。

●走行DATA

池原ダム旧道

>>調査日:平成16年(2004年)3月29日/他多数

音枝峠旧道

>>調査日・走行日:平成16年(2004年)3月29日/平成21年(2009年)9月24日/他

注意>>池原ダム旧道はR169現道から調査しています。R169現道は、走行方向問わず頻繁に走行しています。

日付は使用写真の撮影日のみを記載しています。

【池原ダム旧道終わり】

国道169号線下北山村旧道

 吉野郡下北山村上池原から南のR169現道は、下池原の町中を抜けた後は北山川に沿うルートで南に向かう。絶えず川沿いに進むのではなく、いくつかのトンネルと橋でショートカットしながらの南下となる。そして下桑原地区の大里トンネルを出ると、西ノ川沿いに進んできたr229(県道上池原下桑原線)と合流。大里トンネルを出てからは西ノ川沿いに進み、小口(第一・第二)トンネルを出て北山川を小口橋を渡ると北山川(七色貯水池)左岸を走って三重県熊野市へ至る。

 この区間のR169現道は、池原ダム建設に伴い整備された道路となる。このうち上池原〜r229交差点の間の区間は、ダム建設にともなう資材搬入路として新たに建設された道路の後身で、工事終了後にR169となった区間である。この区間の旧道は西ノ川筋を通る経路で、現在のR425r229のルートである。

■東熊野街道

 音枝(おとし)峠から下ってきた東熊野街道は、下北山村上池原に至ると池郷川を渡って集落内に入る。東熊野街道は上池原では北山川を渡らずに右岸を進んで行く。対岸の下池原との間には渡し船が運行されていた。この地点には昭和3年(1928年)に池原橋が建設されることになる。

 

 

 

▲R425と対岸を結ぶ池原橋。現在も通行可能。

 

 上池原の集落を出た東熊野街道は池の坂と呼ばれる急坂と急カーブが連続する峠道で下北山村池峰に向かう。明神池を過ぎると池峰集落を経て寺垣内(てらかいと)に至る。寺垣内からは西ノ川左岸を通るようになり、下北山村役場のある浦向地区からは佐田〜深瀬〜上桑原〜下桑原を経て現在の大里トンネル南口に至る。ここからは西ノ川左岸を川沿いに進み、今は水没してしまった下北山村小口地区の集落に至っていた。

 明治後半、車道として整備された際に一部でルートの変更などが行われたが、大正9年(1920年)の県道上市木ノ本線指定後も概ねこのルートを経ていた。昭和28年(1953年)5月に県道はR169に指定。このルートがそのまま国道となった。

■ダム建設による下北山村内の道路整備

●小口道路の改修

 吉野熊野総合開発事業の一つとして、熊野川電源開発事業計画が提示されたのは昭和29年(1954年)のことであった。最初の計画では下北山村大瀬(坂本ダムにより水没した集落)にダムを建設することになっていたが、大きな反対はなく、電源開発会社と奈良県・下北山村との間では補償交渉が進められた。それと平行して下北山村池原〜大瀬間の道路の改修が行われ、昭和31年(1956年)9月に完成している。補償交渉は順調に進み、奈良県との交渉がまとまったのを受け、奈良県は昭和33年(1958年)2月から小口道路の改修を開始した。

 ところが昭和32年(1957年)12月になって、電源開発会社は計画を大幅に修正した計画案を提示してくる。この修正案によって、下北山村内に坂本ダム・池原ダム・七色ダムなどが建設されることになった。翌昭和33年(1958年)に、奈良県はこの修正案を認めることになったため、池原ダム他の補償交渉や測量などが開始されることになる。

 一方ではダム建設による資材搬入のための道路整備も行われることになった。資材搬入路の一つとして、池原から尾鷲に抜ける道が昭和35年(1960年)4月に開通する。坂本ダムの建設資材は、尾鷲と池原からの両方向から搬入され、工事は順調に進み、坂本ダムは昭和37年(1962年)11月に完成する。

●池原ダム資材搬入道路の建設

 坂本ダム建設中に池原ダム建設の準備も行われていた。まずは池原ダム建設にともなう資材搬入のため、下北山村上池原〜大小井〜小井〜大里経由の道路改修が実施されることになった。下北山村上池原では、集落をパスするようにして北山川川岸に工事用道路が建設される。今のR169の前身となる道路なのだが、池原橋がR169現道と接続せず、R169現道が池原橋の下をくぐっているのはこういう経緯による。

 上池原から北山川左岸に沿って小口に通じていた道路とは別に、トンネルと橋でもってショートカットする道路が建設されることになった。大里で西ノ川経由のR169(当時)と合流するようにルート設定された道路で、

 上池原から大里に向かって、南池原橋−南池原トンネル−大小井橋−小井橋−大里トンネルが建設され、昭和36年(1961年)6月から翌37年1月にかけて完成している。上池原の川岸道路も含めたこの道路が今のR169であるが、R169として指定されるのは後のことである。

 この後、昭和37年(1962年)3月から池原ダム本体の建設工事が開始される。新たに建設された道路を経由して建設用資材が搬入された。西ノ川経由のR169(当時) を走るよりも走行時間がかなり短縮されたため、木材などを吉野方面に運ぶトラックなども新道を経由するようになった。

 

 

 

▲工事用道路として建設された現在のR169。

 

●国道の整備

 その西ノ川筋経由だったR169も、ダム建設による恩恵を受けることになる。まず昭和39年(1964年)にR169(現R425〜r229)の下北山村池原〜大里間の改修工事が行われ、池原坂及び池峰以南の急カーブの改修が行われた。また昭和41年(1966年)から部分的な舗装工事が実施され、昭和45年(1970年)度までに全区間の舗装が完了している。

●小口橋の話

 下北山村大里から西ノ川沿いに進んできた東熊野街道は、小口集落の向かい側で北山川の岸に出る。ここには橋はなく、渡し船か野猿(人力ロープウェイのような乗り物)でもって対岸の小口集落に渡っていた。

 「下北山村史」には明治に入ってからの記述がないので、明治末の県道昇格後も分断状態が続いていたようである。橋が架かるのは大正末期、大正14年(1925年)のことであった。このとき架橋されたのは吊り橋であった。(初代小口橋)

 昭和30年(1955年)頃になると、吊り橋自体が老朽化してきたため、付け替え計画が練られることになった。しかし小口に橋を架けるよりも国道を小井に迂回(北山川左岸経由か?)させて架橋する案が出てくると、現地(小口)架橋案と対立して大いにもめた。

 結局は現地架橋案に落ち着き、昭和32年(1957年)10月に鉄筋コンクリート製の橋が架橋(2代目小口橋)された。しかし2年後の昭和34年(1959年)9月26日に紀伊半島に上陸して大きな被害を持たした台風15号(伊勢湾台風)による北山川の増水によって流出してしまった。

 

 

 

▲現在のR169小口橋。

 

 再度架橋されることになったが、電源開発事業による七色ダム建設が決まっていたため、水没水位以上の位置に道路と小口橋を新設することになり、昭和36年(1961年)5月末に橋が竣工したのが今の小口橋(3代目)である。このとき、小口第一・第二トンネルも開通。この間の西ノ川沿いを進んでいた明治道は旧道となった。ちなみに小口第二トンネル旧道は、現道との分岐点付近で一部が残っているものの、ほとんど自然に還ってしまったようである。

参考資料・文章引用元>>下北山村史(昭和48年刊)

>>Update H21(2009).10.01

国道169号線高尾谷バイパス旧道

 三重県熊野市桃崎にあるR169高尾谷バイパスは、高尾谷トンネル(L=266m)のトンネルを含む約700mのバイパス道路。それまでは昭和7年(1932年)竣工の高尾谷隧道(L=70m)を経由していた。高尾谷隧道経由のルートは2車線道ながら、急カーブの多い曲がりくねった道路であった。また高尾谷隧道自体の幅が短いため、隧道内での大型車の離合が困難ということもあってバイパス道路が建設されることになった。

 高尾谷バイパスは平成7年(1995年)度に事業開始となり、平成16年(2004年)7月6日に開通した。これにより高尾谷隧道経由のルートは旧道となった。

参考資料・文章引用元>>町史(昭和51年刊)

■国道169号線高尾谷バイパス旧道【現役国道時代】

国道169号線 高尾谷バイパス旧道【2006年レポート】

>>Update H21(2009).10.01

○国道169号線高尾谷バイパス旧道

  【現役国道時代】

【レポートは 奈良県吉野郡下北山村→三重県熊野市方向(北→南方向)です。】

 R169はよく走る国道なので、高尾谷隧道は何度も通行している。バイパス完成間近となった平成16年(2004年)3月末に走行した際に、現役国道時代末期の状態を撮影しておいた。

 狭い2車線幅の平坦な道で、見通しの悪いカーブが連続する。高尾谷隧道を越えるとやや薄暗い場所を通り抜け、小刻みなカーブをいくつかクリアすると、建設中の高尾谷トンネル南口前に出た。トンネル自体は完成していたが、まだ供用前ということでトンネル南口には工事用パイロンなどが設置されていた。

1.開通前のバイパス。北側が車輌出入り口とな

  っていた。

2.当時は現役国道だったので、路面は整備され

  ていた。断崖下を行く。

3.高尾谷隧道に到着。重厚な造りで歴史を感じさ

  せる。

 

 

4. 高尾谷トンネル南口。供用前なのでゲートで

  封鎖されていた。

 

 

<<写真はすべて2004年3月撮影>>

◆現役国道時代レポート終わり

○国道169号線高尾谷バイパス旧道

  2006年レポート

【レポートは奈良県吉野郡下北山村→三重県熊野市方向(北→南方向)です。】

 奈良県から三重県熊野市に入ったR169は、七色貯水池(北山川)左岸に沿って進み土場隧道を過ぎる。土場隧道からしばらく進むと、見通しの良い2車線道が現れる。真新しい道は平成16年(2004年)7月に供用開始となったR169高尾谷バイパスで、高尾谷を渡る橋の北詰で右に分岐する狭い2車線道が旧道である。

 旧道は追い越し禁止のセンターラインがひかれている狭い2車線道。走行時点で旧道となって2年ほど経過していたが、高尾谷隧道までは道路状態は良好であった。見通しの悪いカーブの多い狭い2車線道をしばらく進むと、レンガ造りの重厚な造りをした高尾谷隧道に到着する。昭和7年(1932年)竣工の隧道である。県道上市木ノ本線時代に建設された隧道ということになるが、県道の前身となる県道東熊野街道時代の旧旧道がどこかに存在するのかもしれない。

 全長70mの高尾谷隧道を越えると七色貯水池(大又川)沿いに進むようになる。少し鬱蒼として薄暗い場所を通るのだが、路面には落ち葉が積もり始め、旧道らしい雰囲気が漂い始めていた。平坦な狭い2車線道をしばらく走り、見通しの悪いカーブを過ぎると正面に新トンネルである高尾谷トンネル南口が現れた。ここが旧道南側分岐点となる。距離にして約700mの短い旧道であった。

1.高尾谷バイパス旧道の北側分岐点。高尾谷

  を越える橋の北詰で右に分岐する。

2.旧道は狭い2車線道。センターラインが残って

  いた。(三重県→奈良県方向を撮影)

3.やがて高尾谷隧道に到着。重厚な造りの歴史

  ある隧道。

4.建築学的にも貴重な隧道だとか。平18年時

  点では通行可能であった。

5.隧道を出ると薄暗い所を走る。落ち葉が積もり

  始め、旧道らしくなっていた。

6.高尾谷トンネル南口直前で現道と合流。ここが

  旧道の南側分岐点である。

<<写真はすべて2006年10月撮影>>

◆2006年レポート終わり

<<MEMO>>

■概況・交通量など

 高尾谷バイパスが開通すると、ほとんどの車はバイパス経由となったので、旧道はひっそりとしています。高尾谷隧道北口前からは、高尾谷に沿って山中に入る林道(市道?)が分岐しているので、北側分岐点〜高尾谷隧道北口までは廃道にはならないでしょう。ただ高尾谷隧道以南の区間は将来的にどうなるかはわかりません。

 高尾谷隧道は昭和7年(1932年)完成のトンネルで、建築学的にも貴重なトンネルとのこと。ただ完成してから70年以上経過しているので老朽化により、将来的には抗門にフェンスなどを設置して通り抜けできなくなる可能性があります。

 高尾谷隧道には平成18年(2006年)10月以来訪れていないので、現状はわかりません。R169高尾谷バイパスから見ると、南側旧道分岐点にはゲートがないので通行可能な状態になっていると思われます。

■高尾谷隧道旧道

 この区間のR169は県道上市木ノ本線が前身となります。もとをたどれば東熊野街道が前身なのですが、その街道は明治時代末期に車道として整備されました。大正9年(1920年)に県道に指定され、後の昭和28年(1953年)にR169に指定されています。

 さて高尾谷隧道は昭和7年(1932年)に完成したとのこと。となると、それ以前の東熊野街道〜県道時代の旧道(R169旧旧道)があるはずです。もともと隧道があって拡幅したのか、土場トンネルのように高尾谷隧道上を通っていたのか、川沿いにあって七色貯水池に水没したのかは不明です。そもそも経路自体が別だった可能性もあります。国土地理院の地図には高尾谷から湯谷川に向かう点線(道)が記されているので、それが旧旧道で現位置よりも北東の地点を通っていたかもしれません。少し気になる旧道です。

●走行DATA

高尾谷バイパス旧道

【奈良県吉野郡下北山村→三重県熊野市方向を走行】

>>走行日:平16年(2004年)3月29日(現役時代)/平18年(2006年)10月12日(旧道)

注意>>この区間は、 現役国道時代は走行方向問わず頻繁に走行しています。

走行日は使用写真の撮影日のみを記載しています。

【高尾谷バイパス旧道終わり】

>>国道169号線旧道(9)

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