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地形図で見る国道169号線旧道

五社峠の東熊野街道

大迫ダム旧道

伯母峯峠旧道

天ヶ瀬地区旧道

*ここで使用している地図は、国土地理院長の承認を得て、同院発行の5万分の1地形図及び2万5千分の1地形図を複製したものです。

 (承認番号 平21業複、第932号)

*ここで使用している地図の無断転載・使用は厳禁です。管理人の許可を得て、地図を複製する場合は、国土地理院長の承認が必要です。

◆地形図で見る五社峠の東熊野街道

 吉野郡吉野町〜吉野郡川上村間のR169現道は、吉野町宮滝から宮滝大橋で吉野川を渡り、中山トンネル(L=201m)と五社トンネル(L=1360m)を抜けて川上村西河に出て大滝に至る。この区間は昭和48年(1973年)11月から供用開始となった『R169五社バイパス』と呼ばれたバイパス道路で、旧道は現在のR370〜r16(県道吉野東吉野線)〜r262(県道国栖大滝線)の吉野川に沿うルートであった。

 R169の前身となる県道上市木本線も同じルート(新子・国栖経由ルート)を通っていたが、県道の前身となる東熊野街道は五社峠を越えるルートを通っていた。吉野町宮滝で伊勢街道が分かれ樫尾経由で五社峠を越えて川上村西河に下る、R169現道とほぼ同じルートであった。街道時代は人が通れるだけの道幅しかなかったが、明治時代に入り改修する必要が出てきたため、川上村出身の土倉庄三郎の主導により荷車が通じる道(土倉牛道)に改修された。吉野・川上を結ぶ最短ルートではあるが、急勾配の坂道が続く難路であった。

 しかし宮滝〜窪垣内〜新子〜国栖〜西河の吉野川沿いに進む平坦な道が車道として整備され、大正9年(1920年)に県道上市木本線として指定されると、五社峠経由の道は急速に廃れてしまった。

 昭和28年(1953年)5月に県道上市木本線が国道169号線に指定される。その後は紀伊半島を南北に結ぶ幹線道路として整備が進められることになる。吉野町〜川上村間は、蛇行する吉野川沿いの新子・国栖経由の屈曲ルートを五社峠をトンネルでショートカットするルートでバイパス道路が建設された。

 五社峠を越える道は、国道として指定されたことはないので国道旧道ではないが、R169の先祖である東熊野街道筋ということになる。昭和26年(1951年)発行(昭和24年応急修正)の5万分の1地形図には、東熊野街道と土倉牛道が記されている。

参考資料・文章引用元>>吉野町史(昭和47年刊) /川上村史(平成元年刊)

>>Update H22(2010).03.23

●昭和26年(1951年)発行5万分の1地形図(昭和24年応急修正)

色無し地図

 オレンジ色で記した道路が東熊野街道の後身となる、当時の県道上市木ノ本線。R169時代を経て現在はR370とr262(県道国栖大滝線)になっている。

 赤色で記した道筋が五社峠を越える東熊野街道。江戸時代〜明治時代の東熊野街道は、吉野川沿いではなく最短距離となる五社峠を経由していた。

 地図を見ると、道筋は五社峠で2つに別れる。西河の集落に下る@が土倉庄三郎が作った土倉牛道。Aの道筋が江戸時代からの東熊野街道である。

 Aの道筋はほとんど自然に還ってしまっているそうで、R169現道との合流付近は防護ネットが設置されてしまっているという。

 五社峠を越える道であるが、@管理人はまだ訪れていない。平成22年(2010年)中に訪れるつもりである。

 

【地図で見る五社峠の東熊野街道終わり】

地形図で見る国道169号線大迫ダム旧道

■大迫ダム

 昭和20年(1945年)8月に戦争が終わると、戦後復興のための国土開発構想がうちだされた。昭和22年(1947年)8月に『十津川・紀ノ川総合開発計画』が示されると、農林省(当時)が中心となって調査が行われた。いろいろな候補地があがったが、最終的に昭和24年(1949年)2月になって吉野郡川上村大迫に貯水池(ダム)を建設する計画が立案された。大迫ダムについては、奈良盆地の農業水利に関することから農林省の管轄となった。ちなみに下流に建設された大滝ダムは建設省(当時)の管轄となっている。

 計画が立案されると農林省は現地調査を開始し、昭和27年(1952年)には起工式が実施され、さらに地質調査などの本格的な調査が開始されたが、完成まで一筋縄では行かなかった。詳細は省略するが、昭和34年(1959年)9月の台風15号(伊勢湾台風)による計画変更とそれに対する反対運動、昭和42年(1967年)5月の地滑りの発生による反対運動の激化などで完成は遅れに遅れ、大迫ダムが完成したのは計画が立案されてから約26年後の昭和48年(1973年)6月となった。

■大迫ダムとR169

 大迫ダムによって川上村内の入之波・伯母谷・大迫・北和田・神之谷に渡る地域が水没することになる。それに伴い集落の移転地などが建設されるとともに、各地への道路の付け替えも行われた。R169関連では昭和41年(1966年)から付け替え道路の建設が開始される。

 それまで吉野川沿いに進んでいた明治道に代わり、標高の高い山腹を通る2車線道が建設された。この経緯に関しては詳しい資料がないので推測となるが、昭和44年(1969年)10月にダム本体基礎掘削工事が開始されているので、それまでに少なくともダム本体周辺の付け替え道路の一部完成しているはずである。

 昭和22年(1947年)撮影の空中撮影写真を見ると、川上村柏木地区から吉野川の左岸に沿って白い筋が見えている。今はダム湖の底となっている伯母谷川と吉野川の合流点付近で入之波地区に向かう道路 (現在のr224:県道大台大迫線の前身)が分岐し、R169(当時は県道上市木ノ本線)の道筋となる白い線が伯母峰峠に向かって南西に向かっている。その後、ウネウネと斜面を上って伯母峰峠へと向かっている。この道筋がそのまま国道指定されてR169となったはずで、伯母谷川沿いが上ってくる現在のr224は旧道ではない。このことは過去に発行された地形図でも確認できる。

 現在の旧道であるが、大迫ダム北側(吉野寄り)はダムに向かう道路として残っており通行可能である。ところがダム南側(上北山村寄り)の旧道は見あたらない。旧道のほとんどが大迫ダム湖の湖底に沈んでしまったこともあるが、現在発行されている地形図にも記されていないことからも、廃道となり自然に還ったものと思われる。

関連ページ>>R169大迫ダム旧道

参考資料・文章引用元>>川上村史(平成元年刊)

■昭和22年発行5万分の1地形図

昭和45年発行2万5千分の1地形図

昭和52年発行2万5千分の1地形図

>>Update H22(2010).03.23

●昭和22年発行5万分の1地形図(明治44年測量、昭和6年要部修正)

色無し地図

 昭和22年(1947年)5月発行(明治44年測量、昭和6年要部修正測図)の地理調査所(現:国土地理院)発行の地形図でR169(当時は県道上市木ノ本線)の道筋を見てみる。地図上でオレンジ色に記してあるのがR169(当時の県道)で、緑色で記しているのが入之波に向かう道(現在の県道大台大迫線)である。伯母谷川南岸を通り、急坂でR169に向かう道路は記されていない。測量当時は道はなかったのだろう。

 さて、県道上市木ノ本線は柏木から吉野川左岸を進み、不洞窟前を通り抜けてくる。不洞窟付近は今の旧道のルート(現在は通り抜け不可能)で、吉野川沿いに蛇行しているのが分かる。

 やがて川上村大迫地区に至ると、吉野川支流の神之谷川が合流する付近(地点@)で入之波に向かう道(現在のr224の前身)が分岐している。現在のR169と大迫ダム旧道の北側分岐点とは別の場所である。

 地形図を見ると、入之波に向かう道が分岐してからは揺るやかな勾配の坂道であったと思われる。しばらく左下に入之波に向かう道が見えていたのだろう。しかし右カーブを曲がると、急勾配の坂道となって斜面を登って伯母谷川左岸の谷筋を進んでいるのが分かる。伯母谷川の谷筋に出るときの急カーブを曲がってからは、少しは揺るやかな坂道となり谷に面した斜面を上りながら南(伯母峰峠)に向かっている。

 地図が発行された約6年後の昭和28年(1953年)5月、この道筋が国道169号線に指定されたことになる。そして大迫ダム建設まで、ほぼこのままの道筋であったと思われる。

●昭和45年発行2万5千分の1地形図(昭和42年(1966年)測量)

色無し地図

 昭和45年(1970年)8月発行(昭和42年測量)の2万5千分の1の地形図では、R169現道となる大迫トンネル〜羽衣トンネルのルートが記されている。

 オレンジ色で記されたルートがR169現道であり、大迫ダム建設に伴う付け替え道路である。赤色で記してあるルートが大迫ダム旧道。地形図では色塗りされており、発行時は現役国道であったようだが、ここでは説明上の都合で旧道としてある。緑色が県道(もしくは村道)、連絡道路(迂回路?)などである。

 地形図には現地調査が昭和42年12月実施と記されている 。この頃は同年5月に発生した建設予定地内での地滑りにより建設が中断していた時期である。測量時はダム建設は中断されており、昭和41年(1966年)に建設開始された付け替え道路だけが建設もしくは完成していたと思われる。

 ちなみにこの地形図が発行された昭和45年8月は、大迫ダム本体の工事が順調に進んでいた頃である。

 地形図を見てみる。昭和22年発行の5万分の1地形図と、R169の道筋(赤線)はほぼ同じである。ダム付け替え道路の分岐点が@の地点になっている。これがそのまま現在の大迫ダム旧道北側分岐点ということになる。昭和22年発行の地形図では、吉野川と神之谷川の合流点付近で入之波に向かう道が分岐していたのだが、この地図では記されていない。分岐点はCの近くとなっている。

 ダム建設工事にともない分岐点が移動したのか、水害などで道路が流出などして移動したのかは不明である。ただCに記す道路が河床に向かっているが、この道筋が昭和22年発行の地形図に記されている入之波への道なのかも知れない。

 部分的に拡大。色づけするとややこしくなるので、道路の色づけはなし。番号は大きな地形図と同じ。

■大迫ダム本体付近

 測量時(昭和42年)はダム本体は姿を現していないので、地形図には記されていない。

@が付け替え道路(R169現道)と大迫ダム旧道(当時は現役国道)との分岐点。この道がそのまま現在の旧道分岐点となる。

 ここから川沿いに進んで行く旧道を追って行くと、神之谷川合流点を過ぎても一本道が続いている。入之波への道(県道大台大迫線)の分岐点は移動した模様。

 Aの地点がBで記した連絡道路(工事用道路?)の分岐点。標高の高い付け替え道路と川沿いの旧道とを連絡していたのだろう。この道路は一部が現在も残っているが、ほと

んどが水没してしまい姿を消している。

 旧道の対岸にも黒線(道路)が記されているが、これは工事道路だろう。

■伯母谷川合流付近

 

 この頃の地図は2色刷なので、縮小すると線がごちゃごちゃとなり判別しずらい。

県道から分岐するCの道路は途中で途切れている。川沿いを進んでいた旧道の名残なのか、工事に伴い建設された工事用道路なのかは不明。

 地点Dでは伯母谷川右岸を進み、R169のFの地点に至る道路(r224)が分岐している。この伯母谷川右岸のr224は、後に大きく付け替えられており、途中から水没してしまっている。地点Dの左上に見える橋と対岸の道路は工事用道路と思われる。

 地点Eが羽衣トンネル南口にある付け替え道路と旧道との分岐点。現在はほとんど痕

跡は残っていない。

 この地形図を見ると、羽衣トンネル南口で分岐した大迫ダム旧道は川の流れに沿うように進んでいる。現在残っているダート路のように葛折りとなって谷に下って行くようには記されていない。

●昭和52年発行2万5千分の1地形図(昭和49年(1973年)修正測量)

色無し地図

 昭和52年(1977年)発行の地図では大迫ダムが完成しており、大迫ダム湖が姿を現している。旧道群はほとんどが水没している。

 地滑りで建設が大きく遅れた大迫ダムであったが、昭和44年(1969年)5月に工事が再開。同年8月に吉野川転流が開始されている。この頃に川沿いの旧道は通行止めとなったのだろう。同年10月にはダム本体基礎掘削工事が開始されている。

 昭和48年(1973年)5月中旬には大迫ダム建設工事が完了。同年9月に貯水(試験灌水)が開始され、昭和49年(1973年)6月に完工(完成)した。現地調査を実施したのは昭和49年(1973年)11月と記されているので、ダム完成後5ヶ月後のことになる。

 地形図的には今のものと大きな違いはないが、地点Eから旧道の名残が分岐している。現地調査時はまだ旧道の道路が残っていたのだろう。

現在の地形図では消されている。

 また大迫ダム本体から分岐していた連絡道路も地図上では消されているが、道路の一部は残っている。

 伯母谷川右岸を通っていたr224も、ダム湖南岸を通るルートに変更されている。標高線から判断すると伯母谷川右岸の途中から付け替えられ、現在のようにダム湖沿いをウネウネと進むようになっている。

●現在の地形図こちら

◆旧道は?

 地形図から判断すると、R169大迫ダム旧道は吉野川左岸を進み、吉野川と伯母谷川との合流点付近手前から斜面を上がって伯母谷川沿いの谷筋に出ていたことになる。また伯母谷川の谷間から急勾配の坂道で駆け上がってR169現道に合流するr224はR169旧道ではない 。

 あとは現地で大迫ダム旧道を確認できればよいのだが、残念ながら大迫ダム旧道のダム本体以南のほとんどの区間は水没か消失しているため確認できない。羽衣トンネル南口付近に痕跡らしい廃道があるぐらいとなっている。

【地図で見る大迫ダム旧道終わり】

地形図で見る国道169号線伯母峯峠旧道

 江戸時代の東熊野街道は、現在の伯母峯峠を通らずに、川上村伯母谷の東寄りに位置する伯母峯(1267m)付近を越え、その南にある辻堂山の東寄りをかすめ、北山川と小橡川の間の尾根を通って南下。河合・西原・小橡(ことち)の各集落に分かれて下っていた。現R169よりも東寄りのコースを南下していた。

 現在の伯母峯峠を越えるルートに変更されたのは江戸時代末期の文政年間(1818-1829)のことで、西原在住の岩本弥兵衛の尽力でもって新道が開かれ、西原から伯母峯峠を越えて伯母谷に至り旧来の街道と合流するようになり、現在のR169に近いルートを通るようになった。明治時代に入ると、この道が整備されて荷車や馬牛の通行が可能になった。

 大正9年(1920年)4月、東熊野街道は県道上市木ノ本線に指定される。R169の前身となる道路だ。大正時代後期に入ると、県道は車道として整備されるようになった。昭和時代に入ると吉野地方にも自動車が走るようになり、県道も道幅・屈曲・勾配などの改修が行われたが、部分的に改修されるだけで抜本的な改修ではなかった。

 伯母峯峠区間も車道として整備されることになるが、東熊野街道時代からの難所である伯母峯峠は、急坂・急カーブが続く狭路坂道で、冬期は深雪があるなど、大型バスやトラックの通行は大変危険であった。そのため伯母峯峠下約50m下の地点に、全長145mの伯母峯隧道が建設され、昭和15年(1940年)6月に完成。これにより峠の通行は幾分軽減された。

 昭和28年(1953年)5月、県道上市木ノ本線は国道169号線に指定される。昭和30年代に入ると自動車の普及が進み、通行量も年々増加していった。そのため急坂・急カーブの狭路が続く伯母峯峠を越える道は不便となってきた。そこで大トンネルを新たに開設することで、これらの障害を取り除くことになり、峠下268m下を通るトンネルが建設されることになった。工事は昭和36年(1961年)3月着工、昭和38年(1963年)7月に坑道が貫通し、昭和41年(1966年)1月に開通した。これが現在の新伯母峯トンネルである。

 その後、伯母峯隧道は廃隧道となりトンネル自体が埋められた。また旧々道となった明治時代の県道東熊野街道は、通る人や車が無くなり廃道となり、自然に還ってしまったようである。

関連ページ>>R169伯母峯峠旧道

参考資料・文章引用元>>上北山村の地理(昭和 39年刊)

>>Update H22(2010).03.23

●昭和22年発行5万分の1地形図(明治44年測量、昭和6年要部修正)

 昭和22年(1947年)発行の5万分の1地形図の伯母峯峠付近の地形図である。明治44年(1911年)測量、昭和6年(1931年)要部修正のままの記載となっているようで、昭和15年(1940年)に開通しているはずの伯母峯隧道が記されていない。その分、明治道の道筋が良く分かる。

 地形図を見て驚くことは、現在の伯母峯峠旧道沿いに集落が2つあったことだ。北側(峠寄り)が「今西茶屋」で、南側(天ヶ瀬寄り)が新茶屋と呼ばれていたようだ。新茶屋には寺院もあったようで、『卍』マークまで記されている。現在の旧道沿線には集落はなく、この寺院の姿すらない。廃集落となって建物や家屋は無くなってしまったのだろう。

 『上北山村の地理』(p103)には、明治18年(1885年)当時の伯母峯峠付近の道路状況についての手記が載っている。一部抜粋すると、『 (前略)・・・ 是伯母峯にして神武帝東征の時熊野より此筋を越玉ひしと 余は新道の方を行く 此道明治御一新後開路也(一り) 滝の休所(一り)に知合橋是より坂路峻し(二十五丁) 新道峠是川上谷と北山の境也 此脈西は大峯につづき東伯母嶺大台に続く一大脈胳也 下り(廿五丁)新茶屋(一軒)橋有り 是西川の源也(廿五丁)・・・(後略)』(スペースは@管理人挿入)

 伯母峯峠を越える道には旧道と新道があることが記されている。また新道沿いには新茶屋という集落(?)があり一軒の家があったことが記されている。地図と手記が合っているといえるだろう。

 後年の地図(とくに伯母峯隧道が記載された地図)があれば良いのだが、まだ手に入れていないので、その後の変遷はいまいちピンとこない。手に入り次第、ここに掲載してみたいと思う。

 

【地図で見る伯母峯峠旧道終わり】

地形図で見る 国道169号線天ヶ瀬地区旧道

 吉野郡上北山村天ヶ瀬地区には明治時代に建設(整備)された2つのルートがある。明治14年(1881年)に開通した道と、明治43年(1910年)に整備された道である。

 『上北山村の地理』(p102-105)によると、明治14年に整備されたルートは、伯母峯峠近くの今西茶屋から天ヶ瀬の日浦を経て北山川と天ヶ瀬川合流点に下っていた。しかし急坂であったことから、明治43年の大改修によって、日浦を通るのを避けて、日浦の下方を通る緩やかな道に付け替えられた。この付け替えられた道が後に県道東熊野街道を経て県道上市木ノ本線に指定され、現在のR169になったのである。

関連ページ>>R169天ヶ瀬地区旧道

参考資料・文章引用元>>上北山村の地理(昭和 39年刊)

>>Update H22(2010).03.23

●昭和22年発行5万分の1地形図(明治44年測量、昭和6年要部修正)

色無し地図

 昭和22年(1947年)発行の地形図を見ると、測量当時の県道上市木ノ本線(現R169)は、天ヶ瀬川を上流方面に少し進んでU字を描いていたことが分かる。オレンジ色の道がそれで、今のR169とほぼ同じルートを通るが、整備前はウネウネとカーブが多い道だったようだ。

 県道の上方には赤色で示す道路が記されている。日浦という集落を経て葛折りの急坂で県道に向かっているのが分かる。このルートが明治14年に整備された県道(里道)東熊野街道である。東熊野街道沿いのルートということで、沿道には神社があり、集落があったようだ。

 現在の2万5千分の1地形図を見ると、このルートは点線で記されているので道路自体は残っている。しかし現在の日浦集落は無人になったのか、北側(伯母峯峠寄り)から日浦に向かう道の入口はゲートで閉鎖されており、立ち入ることが出来ない。南側(天ヶ瀬寄り)の天ヶ瀬集落内には日浦から下って来る葛折りの峠道があるが、徒歩以外では立ち入ることは出来ない。

 このルートはR169旧道ではなく、県道上市木ノ本線の旧道(R169旧々道)ということになるのだが、一度訪れてみたい道である。

【地図で見る天ヶ瀬地区旧道終わり】

<<MEMO>>

 地形図で旧道を探してみるのも面白いかと思って作り始めたのが、『地図で見る旧道』です。最初は旧道ページに貼り付けるつもりでしたが、地図を編集中に別ページでまとめて公開することにしました。

 とは言っても、今のところはR169関連しかありません。図書館に行ったのも、大迫ダム旧道のルートを探しに行ったためで、

あの周辺の地域の昭和30年前後の地形図しか手に入れていないからです。このページを作っている最中に、前後の年代も調べてみたいなと思った次第。他の発行年で修正された地形図が数多くあるので、それらも使ってもう少し詳しく作ってみるつもりです。

 ただ残念なことに、@管理人が地形図を手に入れた大阪市立図書館には全ての地形図は揃っていないため、他の図書館か国会図書館に行かないといけないようです。どうしても手に入らなければ、国土地理院に謄本(コピー)請求しないとなりませんです。

 音枝峠を含めた池原ダム旧道が載っている地形図もあります。そちらも載せれば良かったのですが、いろいろと編集などしなければならないため今回は見送りました。m(_ _)m

 今回はR169旧道関連だけ作成しました。とりあえずはR169旧道の1ページとして暫定的に公開していますが、まとまった数が揃えば独立させるつもりでいます。いつになることやら・・・。

■注意しませう

 国土地理院発行の地形図を、個人サイトや図書館などから入手して個人サイトなどで掲載する場合は、国土地理院への申請と許可が必要です。詳しくは国土地理院のサイトをご覧ください。

 当サイトでも、国土地理院の許可を受けた後、地図を作製してサイトを作成しています。

 ここで使用している地図は、国土地理院長の承認を得て、同院発行の5万分の1地形図及び2万5千分の1地形図を複製したものです。(承認番号 平21業複、第932号)

 

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